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文の文

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アートあれこれ1 

≪2004.03.02≫

「紅白梅図屏風」

MOA美術館の尾形光琳の「紅白梅図屏風」を見てきました。
かなりの遠出でちょっとどきまきいたしました。
はじめてのおつかい気分でありました。

さても、
屏風の中で紅梅が見得を切っておりました。
白梅は御簾の陰から覗いているようでありました。

中央の流れには度肝を抜かれます。
これは勇気が必要だろうなあ、と。

しかし、その2枚を離して見れば、なるほど納得
どちらもじつに収まりのよい構図でありました。

展示室の後ろの方に置かれた椅子に座って眺めていると
その両方の梅の木は流れに隔てられ
見つめあうおとことおんなの姿にも思えてくるのでした。

すると、その幹から伸びる細い枝の全てが
通わそうとする情けのようにも感じられるのでありました。
そうして、だんだんどきどきしてきたりするのでした。

そしてまた、他の展示室では
先人たちの美意識を改めて実感したのでありました。
仁清の壷やら、光悦の蒔絵硯箱やら、伊万里焼きいろいろ。
職人の確かな技やセンスに感嘆しながらも
お金持ちなんだなあ、ここのひと、とか思ってしまうのでした。
だって、金の茶室ですもの・・・。

そうそう、このたびは、長次郎の黒楽茶碗に惚れました。
いやあ、渋い。枯れる、とはこういうことでありましょうか。
手にとってみたいなあ、触ってみたいなあ
一服いただきたいものだなあ、と思えども
黒楽さんはガラスの向こう側にまつられているのでした。

白洲正子さんが、骨董は使ってなんぼのもん、と
言っていたことを思い出したりしたのでありました。

何事もなく無事に帰宅できるのかと思っていたら、
帰りのこだまのなかで
「だたいま11号車に急病人がおられます。車内に医師のかたで協力していただける方がおられましたら、お申し出くださいませ」
のアナウンス。

ああ、ドラマじゃなくても、こういうことって、あるんですねえ。
顛末はわからないのですが、どきどきいたしました。
ご無事だといいのですが・・・。


≪朝倉彫塑館≫

朝倉彫塑館である。
ガラス張りの書棚の中に手首から先のブロンズ像を見つけた。
和綴じの冊子やお手製のへらや茶杓などの細かなものと並んで、
その手はなにげなくそこにあった。

それは朝倉文夫氏のデスハンドであった。
亡くなった直後に型を取って作られたものだという。
その手を残しておきたいと思ったひとの心根が伝わってくる。
為すべきことを為したその手には、太い血管や筋が浮き出ていた。

自分の手を近づけて、ガラス越しに比べてみた。
大きさに変わりはないように思えたが、そこに脈打つ力強さが違った。
為すべきことを為さねばこんな手にはなれないのだと思った。
仕事が手を作るのだ、と。

その手が作り上げたもの、つかんできたもの、
育んできたもの、愛でてきたものを思った。

この手がアダムスファミリーのお化けのハンドようにとことこと動き始め
このガラス戸から抜け出したら、いったいどこへ行くだろう、
などと妙な想像をしてみる。

きっと一番に猫の像のところへいって
その喉や背をいとおしげに撫でるにちがいない。
いつくしんだ東洋ランや趣味で集めた古い陶磁器にもやさしく触れるだろう。
洋館を出て渡り廊下から庭に出て池の水に指を浸し、
そこに配された五つの巨石に指を滑らせるかもしれない。

3階まである和室で、畳や土壁や竹、螺鈿の家具をめで
窓や壁など、部屋のどこそこに満ちる「まるみ」の感触を存分に味わってから
ゆっくり昼寝でもして、おもむろに屋上に上がって
谷中の町を一望して「変わったな」と呟くことだろう。
氏がなくなった昭和39年からはもう40年ちかくが経とうとしている。

ガイドブックを見て驚く。
朝倉文夫氏は一度も外遊していない。
そのなかで竹田道太郎さんはこんなふうに書く。

「何もなく、一木一草も生えていなかった日本彫塑の野に
古典からロココまでの伝統を、
ただひとりの作家が種を蒔き,育て、
花咲かせて実現させたといったら、人々は信用しないであろう」

「日本の近代芸術のすべてが
ヨーロッパの直接的な影響によって育てあげられ、
パリに行くことが芸術家としての重要な資格とされた時代に、
かつてその洗礼を一度も受けず、
堂々と日本彫塑の基盤を築きあげた朝倉の
明治から大正、昭和にわたる仕事は
日本造形芸術界の驚異であり、稀に見る異例として
日本美術史に書きのこされるであろう」

この手はやはりすごいことを成し遂げてきたのだと改めて知る。


≪カッコいいぞ≫

竹橋の近代美術館でRINPA展を見た。

出かける前、息子2がリンパ腺の展示かあ、とからかう。いや、からかっているのではなく、ほんとにそう思っているのかもしれない。我が家はものを知らない家なのだ。(例外もいるという意見もある)

いやいや、尾形光琳の・・・と説明し始めて、自分もあやふやで、言葉があやしくなる。適当にごまかしつつ、ま、帰ってからのお楽しみさ、と言い置いて出かけた。

尾形光琳、さかのぼって俵屋宗達、下って酒井抱一と言う江戸時代の人たちの作品を近代美術館で見る違和感を、説明書きが払拭する。

琳派というものは狩野派のように相伝されるものではない。それに私淑したものが時を経て、その技法を模倣し習得して、引きついでいった流れである。

近代の作家たちも、小さなルネサンスのように時を経て、琳派の精神へと帰っていく。そういうものであるらしい。

それは日本画のみならず、クリムトからウォーホールまで海外の作家にも、その装飾性や空間デザインが汲み取られている。

現代に繋がる流れ、その影響を検証するのも近代美術館のつとめであるそうだ。納得。そんなふうにがちがちの枠を取り払ってひょいと時を跨いでみせる姿勢、心意気が説明書きから感じられた。

北斎の浮世絵を見ているといつも感じることなのだけれど、おなじように、宗達、光琳の意匠、デザイン性のようなものがわたしには実に実に心地よい。時に思いもよらない発想だったりして、愉快にもなる。

そして、こんな日本人がいたんだぜ、と誇らしくなる。鼻息荒くそう思い、オリンピックを見ているときのように、自分が日本人であることを妙に意識する。

彼らの作品を見ていると、なんていざぎよくて、かっこいいんだろう思う。空間処理、その切り取り方、配置の見事さとでもいうのだろうか。

疎なるところ、密なるところ、そのバランスが絶妙で、作品の前で目をつむって目の裏っかわにその配置を思い描いて、も一回作品を見ると、おおーと思う。

画面に置かれたもののありようが、人間の生理に合っているんだろうなあ。だから、何度もそこへ戻っていくのだろうなあ。

で、帰って息子2に告げる。
「なにしろかっこいいの。粋なの。見てて気持ちイイの」

われながら言葉がたりないのだが、息子2はにやりとして言う。
「リンパ腺がか?」

なんでやねん!と思いつつ、図録を開いてみせる。
「おっ、風邪薬」という。

そいつは風神。
・・・かないまへんわ。

ルオーとローランサン 2006.06.04

ローランサンとルオーの絵を見に行った。
Fujita展とはちがい数人の客しかいなかった。
なんとも贅沢にローランサンの柔らかな色彩を味わった。



ルオーはちから強い。
ごつんごつんしていて、しかもどこかせつない。




ふたりの絵は
同じ踊り子というテーマでありながら東の空と西の空のように違う。
そこがおもしろい。




この催しを企画するにあたって
最初にこの二人の絵を
頭になかでならべてみたひとがいるはずだ。



そのひとはきっと頭の中に
「!」マークがいくつも点灯したんだろうなあ。





2006.06.26
≪甲斐庄楠音というひと≫


「甲斐庄楠音」という日本画家がいた。明治二十七年に京都で生まれたひとだ。

「かいのしょう・ただおと」という名のこのひとの絵は一度みたら忘れられない。昨晩のNHK教育テレビで初めて見た。

横櫛

島原の女

春宵

この絵を見て、度肝を抜かれた。これが日本画かと。

調べてみると

「第5回国画創作協会展(東京展3月7-21日、大阪展3月28日-4月11日、京都展4月17日一21日)に《南の女》《歌妓》《裸婦》《女と風船》を出品するが、《女と風船》は土田麦僊から“きたない絵”として陳列を拒否される。」

という解説がある。

昨晩は、番組にゲスト出演していた松岡正剛氏がこの画家は土田麦僊の言った「穢い絵」という言葉が終生忘れられなかったのではないか、と言っていた。

それ以後、甲斐庄楠音は「では」と戦いを挑むように、美しい女ではなく、生きた女の絵を描く。それはありのままの女の姿であり、決しておさまった美人画ではなかった。

「わしの絵が針で突いたら血のでる絵や。そばによったらおしろいの匂いがする」と弟子に語っていたという。

生きた女の絵を描くためにこの画家は自ら女装し、花魁の姿になって化粧もして、そのこころもちになって描いた。傍からみていて気持ちのいい写真ではなかったが、そこまでして、という思いは伝わってくる。

甲斐庄楠音はバイセクシャルであったかもしれない、とセイゴウさんは言っていた。

のちのこのひとは映画界に身を投じる。日本画家としての着物選びのセンスを買われて衣装の仕事についた。女優の演技指導などもし、このひとの演技指導を受けた女優の演技は目に見えて色っぽくなったという。

溝口監督の「雨月物語」の衣装でアカデミー賞にノミネートもされている。この雨月物語に出てくる京マチ子の衣装、化粧のしかたなどはこのひとの仕事だ。なるほどぞくっとするほどの色気、妖気、が漂っていた。

「畜生塚」という未完の作品がある。屏風に描かれた大作だ。秀吉に根絶やしにされた豊臣秀次一族の女たちが描かれている。恐怖、不安、混乱、落胆、悲哀、狂気、さまざまな表情、ポーズの大勢の裸婦。宗教画のようにも響いてくる。

大正時代にこんな日本画家が活躍していた。ああ、驚いたことだった。知らないことが山ほどある。

このひとの絵を見ていると、なんだかおなかのなかに得体のしれないものがごろごろしてるようなそんな気分なのだけれど、それでもそれはそれでなんだかあっぱれで、一皮剥いてみればだれだって、という気分になり、いずれいとおしきおんなのすがたかなと思ったりする。






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