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文の文

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アートあれこれ2

≪出光美術館≫2007.03.21

今の展示は志野と織部

学生時代にお茶のお稽古で
茶器の拝見でしげしげとお茶碗をながめていたけれど
なにがどういいのか、よくわからなかった。

なんとなくきれいとかどことなく渋いとか
そんなことしか思わなかった。

まあ今もその延長線上にいるわけなんだけれど、
この展示で鼠志野の茶碗と皿を見たとき
ああ、好きだなと思った。深い色だなと思った。
それは人間が古くなると好きになる色なのかもしれない。

重文の鼠志野の皿には鳥の絵が描いてあって
鶺鴒と説明してあった。
しかし、この字がなんと読むのか、わからない。

うーん、と悩み、隣にいた年上のご婦人にたずねた。
「せきれいです」とそのひとは教えてくれた。

お礼を言いつつ「いい色ですねえ」と言うと
そのひとは「わたし、鼠志野、大好き」と答えた。
その言い方がいい、とてもすきだと思った。
「わたしもです」というとそのひとは上品そうに笑った。

連れ立ってきている年上のご婦人方は
いささか耳障りな会話をくりかえされるので閉口する。

ひとりで行動している年上のご婦人は
話す相手がいないからむろん静かなのだけれど
ひとりで来るという選択をしたところから
たのしみかたが違うのだろうなと思ったりする。

それにしてもここの展示の仕方はいいなあ、と思う。

と、その前に文章のことを・・・。
今回の解説文は格調高くてちょっと近寄りがたい感じがしたけれど
声に出して読んでみると(はた迷惑なのだけれど)実に流れがいい。
書き手 の持つ文体のリズムがいいのだと思う。

さても展示だが・・・
たとえば、茶碗に籠目の文様があるとする。
すると、この美術館のキュレーターさんは
館が所有する屏風や絵巻のなかから
籠目の文様の着物を着た人が出てくるものを選び出して
その部分をアップにした写真を展示する。

やきものの文様は、橋だったり、兎だったり、枝垂れだったり
傘だったり、傾きものだったりするのだが
それぞれに絵巻や屏風のほんの一部を
参照として展示してある。

その記憶力というのか連想力というのか編集力というのか
やきものをやきものだけで終わらせない姿勢というのか
文化みたいなもののひろい捉え方というのか
そこに携わるひとの奥深さが感じられるというのか
まあ、そんなことのすごさを感じたわけで・・・。

茶碗に描かれた吊るしや垣根やなびくものが
そこに結界を作り茶碗のなかに
聖性を作り出しているのだという解説になんだかこころうたれて

なるほど、だからあんなふうに
たいせつにこころして茶器を拝見させられたのだなと
今頃になって思ったりしている。



≪蕭白 ≫2008.08.17
上野の国立博物館でパンチを食らった。

蕭白「群仙図屏風」




思わず「すげえや!」と唸って見とれてしまう。

なんとにぎやかで
おどろおどろしい絵なんだろう。

そのインパクトの強さにおののきながら
それでも目が離せない。

なんて面白いこと考えるひとなんだろう。
この組み合わせはなんとしたことか。

絵師蕭白、屏風絵を頼まれて
よろしおす!と引き受けて

にやりとしながら
今ある現実をひょいっと飛び越えて
見たこともない奇天烈な世界を作り上げる。

それはこの世のどこにもないもので
絵師蕭白のおつむのなかの
奇妙な世界のありさまだ。
どんなもんだいっと仕上げたのだろうか。

一筋縄ではいかないひねくれもののおっちゃんかな
と思ったりするが、腕は確かだ。
どのバーツも仕上がりが美しい。

全体を見たときのバランスに違和感があるが
こちらはそのひとつひとつ丁寧に描かれた
細かなところに見入る。

見つめているうちに
どこかユーモラスでクスッと笑ったりして
なんとも愉しくなってくるから不思議だ。
いろんなところで仙人たちがてんでに語り始める。

おどけた顔の竜に乗っていたり
鯉を洗っていたり
耳掃除されていたりして・・・

幼子を抱っこした仙人は
99のやべっちに似てたりする・・・。

北斎のおっちゃんの絵を観たときもおもったのだけれど
このおっちゃんも今に生きていたなら
すげえ仕事するだろうな。
横尾忠則とかと競ったりしてね。


≪ミホ ミュージアム ≫2009.11.11


わたし、伊藤若冲さんが好きでしてね、
上野の国立博物館で催された『皇室の名宝展』で
「動植綵絵」を見まして



その構図、精密さに心打たれまして
ますます、好きが高じて、それでは、と
京都へ行くという機会に乗じて



滋賀県の美術館に展示されている
このゾウサンとクジラさんも
見に行こうってことになっったんですが

万里先生の書道展に
同級生が集まるその日は日曜で
次の日は月曜で美術館お休みだし

なにしろ3時30分に
京都祇園の建仁寺に着かねばならなかったのに
その日に行くしかないもんで

時間を逆算してパソコン時刻表など検索を繰り返し、
ひとりでミホミュージアムまで行く計画を
立てたのでありました。
(この旅ぎらいのわたしにしては画期的!)

8時前の新幹線に乗って、琵琶湖線に乗り換えて
・・・そのホームへ降りるエスカレーターで
山下洋輔さんとすれ違い
死ぬまでになま山下さんを見られてよかったなあと
そんな幸せの余韻とともに電車にのって

石山駅に着いて
バス停のありかがわからずうろうろして
駐輪場のおじさんに聞くと
「あんた、裏へではりましたで」と言われて引き返し

1時間に一本のバスを待つも
30分も待ち時間があって
そうだ、タクシーで行くか、と思って
またタクシー乗り場に引き返して
値段を聞くと五〇〇〇円なにがしと言われて
ひえ~!っと驚き「バスにします」と謝って

次々に人が増えて満員になったバスに
乗ることになったのでありました。

窓から差し込む強い日差しに焼かれながら
瀬田の唐橋のしたではレガッタの練習が見えたりもしたけど




そのあとは延々紅葉が始まった山の中を
バスは進んでいくのでした。





バスは50分かけて終点ミホミュージアムに着きました。
いやあ、長かった。
i-podに入れたボンジョビのアルバム
全曲聴き終わってました。




こんな幟を見ながら
苦労して辿りつくってことに意味があるんだろうなと
思ったりしながら入場券を買うと
カートもあるけど、歩くと6,7分かかります、と言われました。

へっ?と思いつつ歩き出すと
それは坂道で、トンネルもあって
このトンネルがすごい。



まるで近未来。
なんという美術館じゃあ!と驚き
トンネルを抜けると、こんなのや





こんなのが見えてくる。
すごいもんです。
美術館ってなんでもありだな。


回遊する展示のなかで
若冲さんの描いたいろんな掛け軸もよかったけど
やっぱりゾウサンとクジラさんが圧巻で

その2双の屏風を
後ろの方から腕組んで全体を眺めていると
どこかから潮騒が聞こえてきそうで

雄大なそれでいてどこかお茶目な絵柄に
心なごませてもらったのでありました。

そのほかの展示もあって
そのなかにガンダーラの仏像があって
これがなんとも男前で見入ってしまったのでありました。

時間が限られていたの残念で
もっともっといたかったなあと
振り返った空に紅葉が映えて・・・。



≪屏風 ≫2010.02.27

国立博物館で等伯の作品を観た。

パンフレットのコピーには
「絵師の正体を見た」とある。

秀吉を唸らせた桃山の巨匠、
等伯作の名品を網羅した
最大にして最上の回顧展だそうで

松林図や楓図など
おなじみ、圧巻の作品群が並んでいた。

人気の高い絵に人は群がり
影絵のように人影を落とした作品を観ることとなる。

その人たちが交わす会話が
否応なしに耳に飛び込む。
それぞれの楽しみかたがあっていいのだが
大きな声の会話に邪魔されてしまうこともある。

自分も誰かといっしょなら
同じようにあれこれ感想を口にしているのだろうが
ひとりの時は、その声にいらだったり
「あんさん、それはちがいまっせ」
と老婆心が蠢くこともある。

で、i-Podで音楽を聴きながら観ることにした。
音のマスキングだ。

等伯にはチェロが似合う。

大事な跡継ぎの長男を亡くした画家に
思いを馳せながら「バッハの無伴奏」を選び
ヨーヨーマといっしょに会場を回った。

どの作品もほほうと感心して観たのだが
ひとつ、その前で動けなくなった作品があった。

その絵は「檜原図屏風」(借り物画像)



勝手な言い草だが
わたしは松林図よりもこちらの方が好きだ。


なんというか、
こんなことは初めてなのだが
その絵の中に入って行きたいと思ってしまった。

ここではないどこかへいきたいと思った時
自分はこういうところへいきたいんだなと
気づかされたような気分だった。


≪青眉 ≫2010.10.10

上村松園展へ行った。
雨が上がったからか
TV「美の巨人」で紹介されたためか
やたらの人出だった。

チケット売り場の前にこの行列。
40分の待ち時間だとか。




チケットは持っていたので
行列はスルーしたものの
館内もやはり人が多かった。

昔、パンダを観たときの行列みたいに
ガラスにへばりついて人が並び
とろとろと進む。

これがつらい。
で、その行列には入らず
数歩後ろに立って、人影の間から絵を観た。

それでも時々全体が見える。
それで良しとして次に進む。

美人画。
それぞれの傾げられた首の角度に
いろんな意味がある。

しなやかな肢体、
まろやかな腰つき

見事な意匠の着物、帯
控え目な自然情景

こころはずむ女
こころもとなげな女
もの想いにふける女
一心に芸に打ち込む女
日々の暮らしに心砕く女
そして狂女もいる。

美しい面立ち、
切れ長の細い目

一途な目、まっすぐな目
恥じらう目、憧れる目
いつくしむ目、慈愛の目
ここに居ながらなにも見ていない目

どの目も
しっくりと美人画の中に収まっていたのだが
一枚、あれ、っと思った目があった。




「青眉」と題されたその絵が気になって
次に進めない。
進もうとしてもまた舞い戻って
その絵に見入ってしまう。

青い眉というのは
結婚して子供ができた女の人が
眉を剃ったその剃り後が青い、
ということらしい。

なるほど、眉の感じもあるのだが
このおんなのひとの前を見据えた目が
その絵に収まっていない感じがするのだ。

傘の影に隠れて
なにかその身の丈に合わないことを
ちょっと不穏なことを
考え続けているような気がして
こちらの胸のあたりがざわざわしてくる。

ざわざわしながら
けっしていやな感じはなくて
いっしょにその不穏な想いを共有したくなって
その場を離れられない。

なぜだかわからないが
どの絵のひとよりも身近に感じていた。


帰宅して読んだ図録の説明には、
明治の京女である
画家の母親の懐かしい姿でもあった、
とあった。

京女が思いを巡らすときの目は
こんなふうに少し不穏なのだと納得したりする。



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