今日もおなじようにチラシを配るひとと出くわした。今日のひとはちょっと若い小柄なひとだ。一瞬目があったがそのあとは見ない。なぜだか視線を合わせてはいけないような気分になる。
そのひとも動きがきびきびとしている。スタスタスタと歩を進め、サッサッサッとチラシを突っ込んでいく。そのひとが立ち去ったあとの郵便受けの蓋はその勢いが余ってゆらゆら揺れていた。
地図を片手に郵便受けはどこじゃどこじゃときょろきょろしているわたしと違ってすばやく通りから通りへと渡っていく。気がつくと居なくなっていた。きっと自らが課したノルマのようなものがあって、能率よく動いているにちがいない。
わたしは担当の山崎さんから「ブロックを崩していくように」と注意された。通りから通りに渡っていくと路地に入り損ねてしまうのだ。地図を見ながら路地に入り、また舞い戻る。路地から出てくると、一瞬自分の居場所がわからなくなって番地をみて地図を確かめ、ああこっちこっちと歩き出す。そりゃあ時間かかるわ。
いやいや、時間がかかるのはそれだけではない。わたしはどうもなにかに見とれてしまう人間らしいのだ。
小津映画に出てきそうな家、固定資産税の高そうな家、崩れそうな家、ゴミが溢れる家、ピンク色の洋館、大量の洗濯物が風に靡いているベランダ、貫禄のありすぎる面構えの良い猫、風呂屋の煙突、葬儀屋さんのエレベーター、路地を歩くあひる、そんなものに出会うたびにへえーと驚いたり感心したり、うれしくなったりして立ち止まって見とれてしまう。
そして時にはそこにいるひとと言葉を交わしたりもしてしまう。
「そのひとをまつねこ」 だとか、
「どんぐりころころ」だとかのはなしはその折のことである。
今日も今日とて、路地の突き当たりの手前で仕事をする畳職人さんに出会った。
地べたに広げた青いシートの上で片ひざ立てて、大きな針でスイスイと縫い進む。肘をたたみに当ててキュッとしごく。それがカッコいいのだ。畳を切断する小刀がまたいい形なのだ。小さいときから畳職人さんの仕事ぶりを見るのが大好きだった。
チラシを入れた後、例によってそのひとの手元を見つめていると、70歳くらいの職人さんが顔をあげて「何配ってんだい?」と聞く。
こちらを向いたそのひとの帽子の下から白髪が見え、開いた口元から隙間の開いた歯が見えた。ちょっと笑っている。
「不動産屋のチラシ」
「へーそうかい」
「一枚5円だよ」
「へーいいじゃないか」
「でもマンションとかアパートはいれちゃいけないんだよ。一戸建てだけだよ」
「マンションだといっぺんに済んでいいと思ったけど、そりゃあたいへんだな」
「畳の景気はどう?」
「だめさ。今はどこもフローリングだからさ。畳なんていらねえのさ」
「でも台風で浸水したとこじゃあ畳入れるのがが大変らしいよ」
「ははっ、関西に行くかね。ま、あんたもがんばりな」
うんうん、頑張るよと頷きながらまた歩き始める。そして、そういえば、と思い出す。
改装中のお宅にチラシを入れたとき、中からなにやら建具を抱えた男の人がホッホッホッといいながら出てきたことがあった。大工さんか建具屋さんだろう。玄関先でこちらをチラッとみたそのひとは「おっ、ごくろうさん」と声をかけてきた。
そのときもその言葉に励まされたのだった。一枚5円のチラシ配りを励ましてくれるひとがいる。手の仕事、体の仕事をしているひとの励ましはすーっとこころのほんとうのところに沁みてくるなあと思ったことだった。