小学校6年生の自分の娘の首を絞めて死なせてしまった母親のことが報道され、「子どもを育てる自信がなかった」という本人の言葉が添えられていた。
仲のいい親子だった、と近所のひとがいう。20歳の双子の兄がいて、年の離れた末っ子のその女の子を溺愛しているように見えた、とも。
それを見ながら、ああ、つらいなと思う。
誰よりわが子の幸せを強く願う気持ちがあって、その気持ちがふっと裏返ると、このままではこの子は不幸になるのではないかという不安になってしまう。
自分のお腹を痛めて生んだ子を自分の手で死なせてしまうことのなかには、自分が生んだという責任と申し訳なさのようなものもあるかもしれない。
わが子の幸せを願わない親はいない、と思う。しかし、愛情ゆえの行動であっても、わが子の首を絞めたところで、願った幸せは遠いものになってしまった。
親は、自分が子に示す幸せの形が、親自身の思い描くものであることを忘れてしまいがちになる。こうなったら幸せなのだという雛形、自分が願ってかなえられなかったものを押し付けてしまうこともある。
こども本人が幸せだと思わないがぎり、世間的な形がどう整おうとそれは幸せではないことを親が気づくまでにはなんと時間がかかることだろう。さまざまな葛藤を重ねてようやくそこへたどり着く。
こどもは着せ替え人形でもものいわぬペットでもなくて、貪欲な生身の生き物で、親から見れば道はずれで、言語道断で、そんなことでどうするんだとうなりたくなることの連続だ。成人したって、親が頭を抱えるようなことをしでかしてくる。
自分はそんな育て方をしてしまったのかといたたまれなくなることや、そこまで悩んでいたことをわかってやれなかった自分のふがいなさを呪ったりする。
自信持って子育てをしているひとなんていやしないと思う。
それでも、親子してのたうちながら歩くそんないがいがした道にも小さな花は咲いていて、その道のりをある着てきたものには、その花はどこで咲いているよりも切ないくらいにきれいだったりするのかもしれない。
親であることの幸せはそのいがいが道に咲く花のうつくしさをわが子といっしょに喜べることではないか、と思ったりする。
その花の数だけ親は親らしくなれるのではないだろうか。
子育ての方程式なんてないのだから、イコールで結ぼうなんて思ったら気が遠くなる。いつだって不等式だ。その時点でより良いと思えることを選んでいくしかない。
こどもを育てるということは母親ひとりの肩には重すぎることなのだとみんなが共通に理解しなければ、親の苦悩は続くのだろうなあ。
福知山線の運転手にも母親がいる。監禁事件の犯人にも母親がいる。
・・・なんとも切ない。
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