「どこで読んだのか忘れてしまったのですが
「ひとり親」と言う言葉を目にした記憶があります。
そのとき、ああ、そうか、といまさらのように
「片親」という言葉の切っ先を感じたものでした。
その言葉のもたらす痛みを思いました。
お父さんが片腕のひとが
「片手落ち」という言葉も問題なのだと言ってました。
どの言葉もニュアンス次第ではあるのですが
言葉自体のなかに含まれる現実を
ことさらに突きつけられるとつらいです。
泣きたいときに笑っていた。
そんな思い出を持つひとがなんと多いことでしょう。
大人になったそのひとのなかで
そんな少年少女がまだ泣き続けているような気がすると
わたしは行ってハグしたくなります。」
差別というものを考察した
あるひとのある日の日記にそんなコメントを書いた。
足りないもの、欠けたもの、十分でないもの
普通という概念から外れたもの
そういうものに対する生理的な忌避は
だれのこころにもあるのだろうか。
あるいは後天的に植えつけられたのだろうか。
あってはならない境界線の向こう側から
直接、間接、いろいろに形を変えて
理不尽はやってくる。
そんな理不尽に真正面から立ち向かえない幼い魂は
笑顔の下に涙を隠す。
まっすぐ立っているために
前に進むために
まっとうなおとなになるために
封印した幼い涙の存在が
レントゲンのフィルムをみるように
透けて見えるときがある。
その涙がせつなくて
そのこころがたまらなくて
なにをしてあげることもできないけれど
その幼い魂を抱きしめていたいと思ってしまう。
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Last updated
2009.01.24 09:36:15
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