大島弓子さんの作品のなかに
呆けて記憶が後退している老大学教授が、
自分は若いと思っているのに
朝起きたとき、体の節々が痛んで、これはどうしたことか、
と訝しく思う場面があったと思う。
それを読んだ若いわたしは
へえー、たいへんだなあと思ったのだが
時は流れ、今の自分がまさにそんな風だ。
朝6時半、
目覚まし時計にたたき起された瞬間、うっとなる。
体の繋ぎ目がことごとく自己主張する。
ミシミシしてる。
なんでこう痛むんだろうな。
首、肩、背中・・・きしむきしむ。
二足歩行を選んだ人間のサダメ、かな。
睡眠には身体のメンテナンスも含まれているそうだが
そいつが終わらぬうちに朝がきているのかな
と思ったりもするが
すべて老化のなせる技なのだろうな。
100歳近くまで長生きした親戚のおじさんは
朝、目が覚めてもさっそくは起き出さず
ふとんのなかで少しずつ体に動かし
じっくり慣らしてからおもむろに
ふとんから出ていたそうだ。
体の言い分を聞いてやらんといかん、
のだそうだ。
体は年々文句言いになって
その声が次第に大きくなってもくる。
伴奏のように耳鳴りもする。
わかったわかったとなだめるしかない。
加えて脳味噌の言い分もある。
朝、今日は何日だっけ?と思案して
わからないことがある。
過ぎた日から勘定して、ああ、そうそうと思う。
今日の予定も
メモ帳をめくるまで抜け落ちていつこともある。
昔、年寄りはくどいなと思ったものだったが
それは記憶の抜け落ちのため、
あるいはその防止のためだったんだな。
脳味噌の容量不足が著しい。
今聞いたはずなのに、それをしまうところがない。
脳味噌には雑多な記憶が整理されずに混在しているから
どこにもしまわれない記憶はふっと消えてしまう。
頭のいいひとは記憶がきちんと仕分けされて
引きだしに仕舞われているから
取り出し自由なんだよな。
ならば頭のよろしくない人間は
外付けメモリーとしてメモするしかない。
こんなこともあんなことも
忘れぬために
どうあれ書き残しておかねばならない。
書き残しにあたって
お体裁を思案しているうちに
細部を忘れてしまったりするから
すばやく書かねばならない。
というわけで、と
これから書かれるであろう作文が
体裁悪く、くどくなったりするよと、
言い訳をしたりするわけだ。
言い訳だけは
すっごくうまくなったりするんだなあ、
これが。
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Last updated
2009.11.07 08:14:16
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