ゼア・ウィル・ビー・ブラッド
21世紀は、未来のエネルギーともてはやされた原子力が改めて取沙汰される時代になってきたけれど、少なくとも20世紀は石油の時代だった。19世紀後半には、燃料としての用途はすでに確立されていた。だが原油を原料として製造された石油製品や石油化学製品が作られるようになると、その恩恵はさらに拡大した。20世紀には、エネルギー資源として世界中で様々な用途で使用されるに至った。現代文明を代表する重要な物質であるゆえに、膨大な量が消費されるに至ると、かつての石炭がそうであったように、いつかは枯渇するのではないかという推測がかえってその価値を高めたため、石油を巡って国家間で戦争も起きた。イランがホルムズ海峡を封鎖するぞと脅すと、アメリカがいきり立つ。中国がニコニコ顔で産油国に擦り寄っている。これらの現状は、石油が依然パワーの源泉であり、形は変えたが今も石油を巡る権力構造が継続されている証左に他ならない。石油を牛耳った者が、権力と富を握る。そして一度その味をしめた者は、権益を離さない。それを邪魔する者は、軍隊が成敗しに赴く。そんな時代になった。 その石油が、権力の頂点を掴むことは誰もが分かっている。しかし、だからと言って、その採掘を真剣に試みようとする者はなかなかいない。何せ試掘段階で金がかかる。仮に地中に眠る石油の存在を認めても、その土地を所有していなければ、富を握ることはできない。まして科学が今ほど発達していなかった頃は、実地検証で幾つかの傍証を得て、かなりの確率でここら辺一帯に石油が眠っているだろうという勘を信じて掘り進むしかなかった。山師も多く出没したから、投資金だって集めるのに苦労したはずだ。よほどの執念がないと、モチベーションがまず続かない。かつて産油国であったアメリカでは、掘り当てさえすれば成金になれる、目に見えるアメリカン・ドリームのネタであったにも拘らず、実際の石油採掘へ着手する者は限られ、結局は一部の採掘者に富が集中して、石油コングロマリットが形成されていった。そんな石油ブームの黎明期、ダニエル・プレインビューという一人の鉱山労働者が、異常なまでの競争心と飽くなき野望を滾らせながら油井を掘り当て、独自の石油供給ルートも押さえて富を握るも、極度の人間不信から次第に人格崩壊を招き、栄光を血で染めていくことになる一生を描いた作品が、「ゼア・ウィル・ビー・ブラッド」である。 20世紀初頭のカリフォルニアでは、スタンダード石油が油井を掘り当ててから、“黒いダイヤ”石油を求めて、マイナーたちが集結していた。一介の鉱山労働者だったダニエル・プレインビューも、金鉱の採掘から次第に石油採掘に方向を切り替え、小さな油井やぐらを2,3持つ身になっていた。その異様なまでの欲望で富と権力を手にしたダニエルだが、それだけでは納まらなかった。採掘場で父が亡くなったため孤児になった赤ん坊を養子にもした。H・Wと名付け、自分の息子として周囲に紹介した。自分が持っていない家族を、H・Wの存在で補おうとしたのだ。交渉の場に小さな子供がいると、自分を「家庭人で信用できる人間」と思わせることができたからだ。ある日、ポール・サンデーという青年から、「故郷の広大なサンデー牧場の下に、石油が眠っている」という情報を買って欲しいとの申し出を受ける。ダニエルは、パートナーのフレッチャー、息子のH・Wと共に米西部の小さな町、リトル・ボストンに赴く。地震が作った断層からすでに石油が地表に出ていることを確かめた親子は、早速安い土地を買占め、油井を掘り当てる。リトル・ボストンは不毛の地で、村の人々はポールの弟でカリスマ的な神父イーライ・サンデーが主宰する教会の信徒ばかりだった。幸運にも油田を掘り当てたダニエルは、ただでさえ旺盛な野心と強烈な独占欲をもっているに、その事業規模が大きくなればなるほど他人の力を借りなければならない矛盾に、欲望と欺瞞に満ちたダニエルの心へ、次第に闘争心を掻き立ててしまう。輸送パイプラインを敷こうとすれば、必ずイーライの教会信者の土地を通らねばならない。後にイーライの教会で円滑なビジネスのために、洗礼までさせられる。何かといえば、イーライが神の名の下、ダニエルに立ちはだかるのだった。さらには油井やぐらが火事になり、幼いH・Wは爆破ショックで聴力を失う。全ての事象が、自分の事業欲を満たす小道具に過ぎないダニエルは、聴力がなくなったジレンマから精神に混乱を来した息子を、因果を含めた聾唖教師に委ね、用済みとばかりに遠くの土地へと追いやってしまう。さらに、若き日に故郷を捨てたダニエルへ、その故郷から異母弟を名乗る男が現れ、やがてH・Wに代わる肉親としてダニエルの片腕となって働き出すが、その男が偽者で実際の弟は自分に会う前に肺結核で死んだことを知ると、拳銃で射殺して埋めてしまう。宣教のため全米各地へ旅立ったイーライの不在で、牽制する者がいなくなったダニエルは、他人への猜疑心をますます強め、手のつけられない孤高の男となっていく。それから幾年も時は流れ、大富豪になりながらも人はどんどん去っていくダニエルのもとに、金策に困ったイーライがある日ひょっこり訪ねてくる。今まで正反対の生き方をしてきた両者に、互いの人生で最後の対峙の時が迫っていた・・・。 本作を現代の「市民ケーン」と評する向きもある。それはけっして大袈裟ではない。役者の潜在能力を最大限に引き出すポール・トーマス・アンダーソン監督と、デ・ニーロ・アプローチと双璧と称される役作りの鬼ダニエル・デイ・ルイスの邂逅。人間としては最低のクソ野郎の人生を、正反対の人生を歩む宣教師の人生や商売敵との凌ぎ合いで彩りながら、下手に否定することなくストレートに描いたこと。この2つの要素が、作品を成功に導いたような気がする。ダニエル・デイ・ルイスは、変幻自在の個性を演じることができるから、きっと繊細な心の持ち主ではないかと思うのだが、ここでは厚かましく、尊大で冷徹な男の図太さを事も無げに創り上げ、監督もほとんど演出ではなく方向性を示唆しながら、巧くダニエル・デイ・ルイスを乗せている。どうやら役者をその気にさせることが上手なディレクターのようだ。同時にアンダーソン監督は、桁外れの野心を持つダニエルという男の肉付けに、下世話な目的意識を忍ばせなかったし、聖職者だからといってイーライの生き方の肩を持つような描き方もしなかった。むしろ冷酷で無慈悲なダニエルの人生すらも完全否定しなかった。思えばダニエルは、いったい何の目的で石油を掘っているのかわからない。金なのかと思いしや、それだけではない。人の飽くなき事業欲が尽きることがないのは、結局は金という方程式があるけれども、ダニエルは人を信用しないあまり油井の周辺にテントを張って生活している。華美な生活を望んでいる風でもなく、一文たりとも他人へ銭を払いたくないのだ。後年、大邸宅を構えるが、大金を得て人生を楽しむような生活は少なくともしていない。では、女なのか。いや、彼は人間不信から女も近づけないのだ。家族愛なのか。ビジネスを巧く回すため、急造ではあるが家族は作った。しかし、それが自分にとって不要と分かると打ち捨てた。では、ダニエルを駆り立てる競争心・敵愾心は、いったいどこから来るのか。作品は、ここにも明確な答えを敢えて出さない。むしろ「何か特別な目的があって金儲けしていると考えるのは、下種の勘繰り」とばかりに、ダニエルにスクリーンから我々を嘲笑させ、毒づかせる。それは酷く居心地の悪い空気を生む。なぜならば、「人生、金ばかりではない」と言い放つ人に限って、実は自己実現のために何も行動していないことを思い知らされるからだ。「自分ならば、ダニエルのような人生は虚しいから嫌だ」・・・そう思えば思うほど、ダニエル・プレインビューという男の存在は、自分の心の中で勝手に肥大化してしまう。そこに、「人間っていったい何?」そんな疑問が湧く頃には、この映画が意図する術中へすっぽりと入り込んでいる。こうした観た者へ自発的な判断を促すような手法は、実に保温性の高い表現だと思う。考えてみればダニエルのような人間は、そこかしこにいる。たとえば、ひょっとしたら今後は太陽エネルギーにスポットが当たり、今後は森林伐採による砂漠化で枯渇していく飲料水を巡って、“ダニエル・プレインビュー”がまたぞろ復活するかも知れない。我々は、常にヒーローたちを待ち望みながら、同時にどこかで彼らの横暴を恐れている。そんな心にダニエルは、今後何度も去来するだろう。良質な映画は、しばし時を忘れさせる。本作を観ながら、2時間半は瞬く間に過ぎた。