哀しみの異称(5)「闇への旅立ち」
間人が病室に控えていると、医師が診察に来た。「お前は外に出ろ」寝巻の胸元を広げながら、三峰は間人に言った。「私にもまだ、恥じらいはあるのだ」間人は頬を赤らめて、出て行った。「先生・・」声を潜めて、三峰は何かを老医師と相談した。「はい、ではそのように」老医師はそう言い、うなずいた。三峰は寝巻きを直し、居住まいを正した。そして老医師に深く頭を下げた。「今まで、ありがとうございました」老医師は何を言わず、彼も又、若き長に向かい頭を下げた。夜半に訪れた白露が看病を交代して間人に寝るように言った。間人は素直に出て行った。二人きりになると三峰は白露に言った。「寒露を呼べ」すぐに寒露がやって来た。三峰は身体を起こし、用意してあったものを取り出した。「お前達に、これを」白露に白い戦闘服を渡した。「お前と私は背格好が同じ位だ、着られるだろう」寒露には愛刀冴枝丸(さえだまる)を与えた。「これに活躍の場を与えてやってくれ」三峰は疲れたのか、再び横になった。「すまんな、他に良い物がなくて。せめてお前達二人には何かやりたくて」白露は服をおしいただくようにして頭を下げた。「いえ、ありがとうございます。頂戴いたします」寒露がふと問いかけた。「間人には何かやらないのですか?」三峰は寒露を見て微笑んだ。やつれてはいても美しい微笑だった。「うむ、私の一番の宝を与えてやろうと思う」白露の顔が暗くなった。それを見て三峰はいたずらっぽい目をして白露を見た。「私の一番の宝、それはお前達だ」「三峰様、それはどういう・・」白露は”宝”を言われたうれしさと、与えるという意味の不確かさに眉を寄せていた。「お前達は盾でも最高の者達だ。その二人を組の者とした私は幸運だった。お前達がいなければ、私は長の務めもこれほどに果たせずにいただろう。あらためて礼を言う」二人は黙って頭を下げた。三峰は深く息をした。どこか苦しいのだろう。「私が長になった時、ひとつの預言がマサト様を通して伝えられた。サギリ様はあれの未来を見たのだ」「間人のですか?」白露は聞いた。「ああ、幸彦様を助け、村を救うだろうと。その時はまだ間人の素性は知らず、その意味すらわからずにいた。おそらくあれが佐原の夢の力に目覚める時が来るのかもしれない。幸彦様がこのままでいらっしゃるなら、それが必要な時が来るのかもしれない」二人は黙って聞いていた。「お前達に間人を守って欲しい。佐原の血を、村を守る為に。私の一番の宝であれば、それを成し遂げてくれるだろう」「では、間人の事は最初から」「ああ、それ故の”特別な子”でもあるのだ」白露が言った。「わかりました。それが三峰様のお気持ちなら」「お前達がいてくれて良かった。これで私は安心出来る」三峰が決意をしているのを、白露と寒露は感じた。近々に山に登るおつもりだ。二人は無言で目を合わせ、うなずきあった。白露は白い戦闘服を大切に抱え、自室に戻る道を歩いていた。僕の本当の一番の宝は三峰様の心だ。それをあの子は持って行ってしまう。嗚呼、三峰様、僕が愚かな行為に走らないようにお守り下さい。あの子に罪はないのは分かっています。けれども私は貴方がこんなにも愛しいのです。私の命もすべて貴方に与えてしまいたい程に。そうして貴方が生きられるなら・・・その夜遅く、三峰は密かに着替えをすませ病室を出て行った。三峰は保名と鵲の家に立ち寄った。盾の家の妻らしく保名は三峰の決意を聞いても取り乱しはしなかった。「私はお前にすまないと思う」「いえ、貴方は私に長の妻という栄誉と鵲を与えて下さいました。私の上に起きた事はすべて私の軽率な行為のせいです。貴方のせいではありません」「保名、すまない」「良いのです」三峰は眠る鵲を抱き上げた。保名は見えない目ながら、二人の気配のする方に顔を向けて微笑んだ。「この子は父親似だと皆言います」「そうか、強くなると良いな」「ええ、きっと。貴方の子ですから。村中の沢山の女の子が憧れるでしょう、貴方がそうだったように」三峰は笑った。「はは、それは知らなかった」「貴方は真面目でいらしたから」腕の中の小さな柔らかい命を、三峰は愛しいと思った。そして父を亡くす子を不憫に思った。三峰は我が子をそっと布団に寝かせ、その枕元に竹生から譲り受けた父の名刀を置いた。「鵲、これをお前に譲る。風の家の宝だ、大事にせよ」大人に言うように、三峰は鵲に語りかけた。「父が戻らぬ時は、お前が母を守り、村を守れ」その夜は親子三人で寝た。まだ暗いうちに三峰は発った。保名はその足音が聞こえなくなっても、ずっとその後姿を見送るように、立ち尽くしていた。三峰は着慣れた黒い戦闘服を着ていた。幾多の戦いをくぐり抜けて来た服だった。竹生の組の者として。兄と共に戦えるのはうれしかった。兄の後をいつも追っていた。今もそうなのだろうか。(これは私の意志だ。同じ道を辿るとしても、その行く先は異なるのだ)三峰は山と外界と隔てる柵を精一杯の力をこめて壊すと、禁忌の境界を越えた。以前なら息も乱さずに走り切れた距離を、今はゆっくりと歩むしかない。それすら止まりがちになる足を励ましながら進んでいく。病に根こそぎ体力を奪われた身体は、重い石ででも出来ているかのように三峰には思われた。風はもう吹いて来なかった。かつては軽く飛べた空を、三峰は立ち止まって見上げた。衰えた身体にはもはや風を呼ぶ力は失われていた。まだ山に入り幾らも歩かぬというのに三峰は立っているのも辛くなった。休みながらも、それでも立てるうちは進もうとした。山道はまだ果てしなく続くように思われた。三峰は大木の根元に腰を降ろし幹に身体をもたせかけた。ここまでか・・私には無理か。「三峰さま!」藪を掻き分けて駆け寄って来た者がいた。小柄な身体が三峰の傍らに跪いた。「間人、何故・・」「お一人では行かせません」「馬鹿・・」「僕は、村も佐原の家も、そんなもの・・三峰様の事だけが、それだけが・・」「お前は大切な身体だ。生きねば・・」「嫌です、ただ生きるだけなら。心が死んでしまっても生きろと言うのですか?」「私はお前を愛しすぎた。それが私の罪か・・長として失格だ」「何を言うのです」「お前に嫌われるべきだったな・・お前が私がいなくても生きていけるように・・」「無理です、こんなにお慕いしているのに・・」「私を愛してくれるなら、頼む、私の分も生きてくれ。村の未来を、鵲の成長を、幸彦様の事を・・私の代わりに見てくれ」「そんな・・」「私はもう動けない・・私の願いをきいてくれ、私の”特別な子”よ・・」「誠志郎さま!」三峰は微笑んだ。「その名を覚えていてくれ・・お前にしか教えていないのだから」「ああ、誠志郎さま・・」三峰の再三の説得に、遂に泣きながら間人は去って行った。三峰は一人、空を見上げた。哀しさも空しさも不思議と湧いて来なかった。このままこの木々の中に溶け込んで山の一部になれるような気がした。それでも空は青く、流れる雲には風があった。風は木立を抜け、今は白くなった三峰の髪をも揺らした。風はいつも三峰の支えだった。どんな時も風は彼の想いをかなえてくれた。重い心にも風が吹いた。(少しだけならまだ動けるか・・)三峰は這いずるように、道を登り始めた。まだ少し、あと少し・・黒い影がその姿を見下ろしていた。間人は山を降りかけたが、やはり三峰の事が気になり、今降りて来た道を戻った。だが先程の場所に三峰の姿はなかった。あたりを見回しても人の気配はない。「三峰様!!どこですか!!三峰様!!!!」狂ったように叫びながら間人は山の中を走った。涙と汚れで顔が縞になった。手足は枝や岩で掻き傷だらけになった。「三峰さまぁーーー!!」疲労で走れなくなっても、間人はなおも進もうとした。足が滑った。崖を転がり落ちた。衝撃と激痛の中で間人は意識を失った。(誠志郎・・さま・・)もう手も足も動かす事はかなわなくなった。薄れていく意識の中で三峰は黒い影を見た。声が聞こえた。良く知っている声のような、そうでないような気がした。(思い出した・・この時の為に、私は生き長らえて来た)(お前は、誰だ・・私は今、死に向かっている)(私は永遠・・そしてそれも間もなく終わる)(誰なのだ・・)(私は貴方に命を捧げ、そして長い時を生きる・・)(死神では、ないのか)(我はこの地に封じられし者、呪われた者と今は呼ばれている)(ああ・・私は試練を乗り越えられず、ここで息絶えるというのに、何をしに来た)(貴方を死なせない、その為に私はいるのだ)(それは・・どういう・・)(まもなく新しい私が来る・・それまで、貴方はしばしお休みを・・)三峰の意識は闇に飲み込まれた。掲載小説のまとめサイトはこちらです