2424608 ランダム
 ホーム | 日記 | プロフィール 【フォローする】 【ログイン】

楽天塾

楽天塾

2012.02.16
XML
カテゴリ:世界の人100

この1000年で最も重要な功績を残した世界の人物100人
LIFE_animation
 ライフ(Life)はアメリカで発行されている雑誌。写真を中心とした誌面で「グラフ雑誌」と言われる。フォトジャーナリズムという文章記事よりも写真を中心に報道・言論を構成しようという考え方はすでにヨーロッパ(特にドイツ)で試みられていた。ライフ誌はカメラマンをスタッフという専属的な所属とし、撮影から記事・レイアウト等の編集のスタイルを一貫させ、「フォト・エッセイ」と称した。第二次大戦前から戦後復興期、テレビの本格普及前までが黄金期で、アメリカの思想・政治・外交を世界に魅力的に伝える媒体であった。
 現在のライフ誌は2004年10月に無料週刊誌として復活し、新聞折り込みのかたちで約1300万部が発行されている。しかし、厳しい経営事情を背景に、2007年4月20日号を最後に休刊することが発表された。今後はウェブ上にて、同誌の保有する写真約1000万点を閲覧できるなど、引き続きサービスを継続していくことも同時に発表された。
Wikipedia:「ライフ (雑誌)」



file No.52 ジャン=ジャック・ルソー (フランス)(1712~1778)


■経歴
 ジャン=ジャック・ルソー(Jean-Jacques Rousseau, 1712年6月28日 - 1778年7月2日)は、スイス生まれの啓蒙思想家・政治思想家・教育思想家・作家・作曲家。単なる純理論にとどまらない、多感さを反映した著作は広く読まれ、フランス革命やそれ以降の社会思想にも多大な精神的影響を及ぼした。
 1712年、スイスのジュネーヴに時計職人の息子として生まれるが、母は8日後に死去。7歳頃から父と共に小説や歴史の書物を読み、理性よりも感情の優位を説く思想の基礎を築いた。1725年に父と兄が家を出てしまい、ルソーは牧師に預けられたのちに彫金工に弟子入りをするが3年後に出奔し、放浪生活を送る。1732年にジュネーヴを離れ、ヴィラン男爵夫人に庇護されながら、さまざまな教育を受け、その愛人となった。この時期については晩年、生涯でもっとも幸福な時期として回想している。夫人と別れたのち、1740年から1741年にかけてリヨンのマブリ家に滞在、家庭教師を務める。この職を辞した後、1742年に音楽の新しい記譜法を発表し、それを元手にパリに出てディドロらと親しくなる。これがきっかけで後の一時期、『百科全書』に原稿を執筆している。1745年、下宿の女中テレーズを愛人とし、10年間で5人の子供を産ませ、5人とも孤児院に送った。しかし1750年にディジョンのアカデミーへの懸賞論文「学問及び芸術の進歩は道徳の純化と腐敗のいずれに貢献したか」において執筆した『学問芸術論』が入選してこの不遇状態は一変、以後次々と意欲的な著作・音楽作品を創作する。書簡体の恋愛小説『新エ口イーズ』(1761年)、『社会契約論』(1762年)などはベストセラーとなった。ただしこの間、ヴォルテール、ダランベール、ディドロら当時の思想界の主流とほとんど絶交状態となった。
 1762年はじめに教育論『エミール』が刊行されると、その第4巻にある「サヴォア人司祭の信仰告白」のもつ自然宗教的な内容がパリ大学神学部から断罪され、『エミール』は禁書に指定され、ルソー自身に対しても逮捕状が出たためスイスに亡命した。亡命中は、スイス、イギリスなどを転々としたが、彼を保護したイギリスの哲学者ヒュームと不仲になり、1770年、偽名でパリに戻った。パリでは、亡命中から執筆していた『告白』を書き上げ、続いて『孤独な散歩者の夢想』を書き出したが、この作品は未完のままパリ郊外で亡くなった。




ルソー著「エミール(教育について)」



★私生活においては、極度のマゾヒズムや露出癖、知的障害者に性的虐待を行い妊娠させ次々に捨てるなど、性 倒 錯が顕著でもあり、自身の著書『告白』などでそれら様々な行動について具体的に触れている。少年時代には強 姦 未 遂で逮捕されたこともあったという。・・・ルソーって多重人格者だったのか!?





 参考:Wikipedia







お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2012.02.26 05:28:15
コメント(0) | コメントを書く


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! --/--
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x

© Rakuten Group, Inc.