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BANGKOK艶歌

BANGKOK艶歌

(第十六話~第二十話)

       第十六話 「すれ違い」

 加瀬が『K』から足が遠のいてから一ヶ月が過ぎようとしていた。
トイからは、週に何度か「誘い」のメールが入っていたが、忙しい
ことを理由に行かずにいた。
 しかし、それもここ一週間は何の音沙汰もない。こうなると逆に
気になりだして、少しは大人になって対してやろうと、久しぶりに
ブッキングの電話を入れた。

---ああ、久しぶりだね。
---はい。お仕事忙しいんですか?
---うん。ここんとこ色々と問題が多くってね。
---あまり仕事ばかりして身体壊さないで下さいね。

 タイ人というのはこういう部分ではかなり欧米的なところがあって
会社のために「滅私奉公」などといった日本ではまだ生きている愛社
精神などというものは、少ない。仕事より、家族。仕事より、恋人と
いった感じである。

---今夜、お客さんは?

 以前のトイであれば自分だけしか指名客が無かったので、加瀬もそ
の日は確実に会えるものと思っていたのであるが、トイから返ってき
た返事は、意外なものであった。

---ごめんなさい。今週はずっとブッキングが入ってます。
---(誰だ?)そう。。。

 何か、言葉では表現できない寂寥感に襲われた。自分が意地を張っ
てその女を遠ざけている間に、事態は変化していたのだ。

---来週の月曜日はどうですか?会いたいです加瀬さんに。
---うん。来週の予定はちょっとわかんないな。
---そうですよね。加瀬さんお忙しいですものね。

 加瀬は正直面白くなかった。どこぞの誰かの「次」に置かれたことが
先程の寂寥感をふっ飛ばし、頑なな男の意地を増幅させていた。

---じゃ、またな。
---あのっ?
---ん?
---あっ、いやいいです。じゃ、お仕事頑張ってください。

 トイは肥田のことを話すつもりであったが、冷たい加瀬の言葉に気を
削がれた思いで、断念した。
 肥田はここの所、毎日のようにトイをブッキングしていたのである。
 トイも仕事であると割り切ろうとしていたが、ジョイとの関係を色々
後で聞いて、男としては警戒しなければいけないと思っていたのだ。
 正直、加瀬がその中に割って入って、自分を守ってくれることを願っ
ていた。いつか、肥田は自分に対しても甘い誘いを切り出すであろう。
 今の自分にはそれをはっきり拒絶できるだけの意志力は持ちえている
とは思っていたが、加瀬の冷たい態度は女としては悲しく写った。

 加瀬も電話を切ってから、熱く血が昇った頭を冷やしてみて、ひょっと
して取り返しのつかないことを自分はしているのではないかと、思い直す
のであったが、四十過ぎた男のつまらない「面子」はそれを遮った。

---サワッディー カァー。
---やぁ。今夜も会えて嬉しいよ。

 肥田は狙った子猫をじわりじわりと、部屋の隅に追い詰めるかのように
トイの中に侵食し始めていた。女というものは、さほど気にも掛けなかっ
た男であっても、毎日毎日、小まめに電話やメールを寄こされ、そして会
った折には、さも嬉しそうな顔をされると、悪い気がしないものであって
トイも例外なくその押しの強さに耐えかねていた。

---土曜日はさ、美味しい肉、食べに行こうよ。トイは牛肉好きだったろ?
---はい。楽しみにしています。

 肥田は、その土曜日の日を「決行」の日と決めていた。最後の一押しで
何が何でもその女を我がものにし、男の思いを遂げるつもりでいた。
 そうして今まで、自分の身の下に女を組み敷いてきたのだ。ただ、ジョ
イを陥落できなかったことを悔いてはいなかった。もはや、他の女には目が
行かないほど、その女への情念を燃え上がらせていたのだ。
 その理由の一つに、加瀬のお気に入りの女であるということを、加瀬は
全く気づかずにいたのである。

                     (第十六話 了)


         第十七話 「 オファー 」

 肥田との約束の同伴の日が来た。肥田は、スクンビッツの『まる』に
席を予約していた。和牛肉を食わせる店で、接待で駐在員達もよく利用
する店である。

---しゃぶしゃぶで、いいだろう?それともステーキがいいか?
---お任せします。こんな高そうな店、何もわかりませんから。

 肥田は、しゃぶしゃぶのオーダーをすると二階の部屋に移動すること
を店員に告げた。
 
 まもなく見事な霜降り肉がテーブルに運ばれてきて、店員が鍋の用意
をしはじめた。トイにとって、それがどういう食べ方が作法なのか分ら
ず、少々緊張を強いられた。普段はタイ飯を屋台から買ってきて食べた
り、店の帰りにジョイと屋台で済ませて帰るのが食事の常であったので、
期待感より疲れる思いの方が先立ったのであろう。

---さぁー頃合だ、食べようか。
---はい。

 トイは、肥田がひとしきり肉を口に運ぶまで「様子」を伺っていた。
それはその「食べ方」をマネるためである。

---そうか、ごめんね。えっとねこうやって・・・しゃぶしゃぶ・・・と。

 肥田は、トイがそれを初めて口にすることを察して、自ら肉を箸で摘み
「作法」を示して見せた。
 その甲斐甲斐しい姿に、トイは少しずつ警戒を解いていかれるのであっ
 た。

---美味しいですね。こんな柔らかい肉初めてです。

 確かにタイ産の肉は顎が疲れると言う形容が相応しい物であったのであ
るが、飾り気もなく、嬉しそうにしているトイがいじらしく、そして可愛
く思えた。
 トイは、普段は口にしないビールも肥田の薦めで二杯も飲んだ。
そのせいもあり気が緩んだのか、肥田のペースにどんどん嵌っていくこと
に警戒もせず、時間が過ぎていった。
 
---トイ・・・話しがある。
---はい。何でしょうか
---俺と一緒に住んで欲しい。店も辞めてほしい。
---。。。。。。

 予期はしていたとはいえ、いきなりのオファーで返答に窮した。

---ジョイとのことは君も知っているはずだから、何の言い訳もしないよ。
  ただ、君を自分の物にしたい。好きなんだ。

 初老にも差し掛かろうかという男が、ともすれば気恥ずかしくなるよう
な甘い言葉で自分を口説いている姿は、それまでのマイナスの先入観を変
えるだけの効果はあった。

---本気ですか?肥田さん。
---もちろんだ。俺はおそらく死ぬまでこの国で会社がある限り働くつもり
  だから現実的な話をすれば、経済的に不充はさせない。
---はい。。。。。。でもどうして私なんか、そんな風に思って戴けるので
  すか?
---全てが気に入っているんだ。

 肥田の眼差しは真剣であった。髪に白いものが目立つ目の前の男とは、他
人が見れば、一目で『そういう関係』としか邪推されないような歳の開きの
ある男と女であったのだが、トイの目にはその時は一人の男として映ってい
た。

---考えさせてください。

 そう返答するのが精一杯であった。

 (一緒に住んでくれ)というその言葉の意味は、当然トイにも分っていた
が、それはこの国では妾(ミヤノイ)という立場であることが、どうしても
割り切れなかった。

---そう。わかった。待ってるよ、いい返事を。

 肥田は目の前の女は強引にその場で決着を付けられる女ではないことを承
知していたので、潔くその場は引いたのであった。


 トイは、食後のデザートが運ばれてくるテーブルの上を視線を定める風で
もなくただぼんやりと眺めていた。
 その時、トイの携帯がバッグの中で踊っているのが分った。すこし迷った
が相手を確かめるべく、バックライトに輝く窓の中に視線を落した。
 加瀬からであった。トイの心臓が高鳴りを打っていた。しかし、後でそれ
がどうしてなのか分らなかったのであるが、携帯をバッグの奥深くに戻して
いたのだ。
 トイにとっては3分間も鳴り響いていたように思える、加瀬からの電話の印
がやがて途絶えた。

---出れば良かったのに。お客さんかい?
---はい。。。いいんです今は肥田さんと同伴してもらっている時間ですから。
---だから、出て欲しいんだ。堂々と「同伴中」だって言って欲しいね。

 少し酒の酔いが挿しているのか、赤みかかった頬に幾本かの皺を作って、笑いかけている肥田が、トイには色っぽく見えた。

 トイはそんな肥田のためにリップサービスのつもりで言った。

---加瀬さんです、今の電話。

 肥田の目が一瞬、ダウンライトの闇の部分で光った。

---ほぉー、加瀬君だったか。彼も君に御執心だったよね。
---さぁ。わかりません

 少し伏せ目がちに、ぶっきら棒に答えることで、先ほどの自分の胸の高鳴りの虚像を打ち消したかったのかもしれない。

---加瀬君から君を奪えたら、この上ない悦びだよ。

 その肥田の言葉の、裏側に潜む肥田の翳の部分を、トイは知るはずもなかった。


                         (第十七話 了)



          第十八話 「 ノルマ 」


 肥田との同伴の日の夜、トイはなかなか寝付けずにいた。
食事中に肥田から出た「オファー」に対しては取りあえず考え
させて欲しいと応えたものの、酒の酔いが醒め、冷静に考える
と何故あんな返事をしたのか、分らずにいたのだ。

 日本人が、カラオケのホステスへのそういった類の「オファー」
を仕掛けることは何も目面しいことでもないのであるが、現実に
自分がそれを受けてみると、つくづく自分の置かれている立場
が情けなくなり、腹立たしささえ、覚えるのであった。

 つまりは---妾(ミヤノイ)に成れ。
 そういう意味なのである。生まれ育ったウボンの地では、そう
いう立場の女が沢山居たのを覚えているが、ぼんやりとである
が、自分だけは絶対、ああいう風に成りたくないと思っていた。

 何のために世間の目を気にしつつも、この仕事しているかと
言えば、バンコクという大都会で、一人生きていくためであり
当座は学費を稼ぐと言う大義名分があった。しかし、それとて
も初老の肥田に抱かれなくては得られないような額の金ではな
かったのである。

---馬鹿馬鹿しい・・・・・・

 そんな風に思えて涙すら出てくるのである。確かに、今の自分
にとって肥田は有り難いお客であり、自分のサラリーの多くはこ
の男のお陰といってもいいだろう。しかし、例えカラオケに勤め
る女であっても、好きでもない男に身を任せなければならないほ
ど自分は金に不充しているわけではなく、そこまで自分の身を置
く場所を下げることなど到底できなかった。

 ジョイもきっと同じような「オファー」を受けていたに違いな
い。ただ、ジョイは究極の選択を迫られ、結局あの男を拒絶した。
 そんなことを少しばかりジョイから聞いていたので、とてもで
はないが、自分には肥田を手玉に取れるようなマネなどできっこ
ないことも分っていた。

---ちゃんと、断ろう。
 そう思って目を閉じ、眠りに着いた。



 月初の給料日の後は、ママが入っての全員のミーティングが恒
例であった。

---今月から、同伴のノルマを、月に3回にするわね。

 ママの声が冷たく響いた。月に2回のそれでも消化出来るホステ
スは半数にも満たないのに、さらに厳しいノルマであった。
 ホステス達の中から、言葉に成らない不平のざわめきが広がる。
 同伴ノルマが達成されなければサラリーカットであり、日頃、指
名が付いて「コーラ」を稼げるホステスはいいが、それも少ない者
にとって「基本給」であるサラリーをカットされることは、死活問
題であったのだ。
 その上に今月はユニホームの更新月で、またも出費がかさむ。

---(もし、今月、同伴消化できなかったら。。。)

 トイは、田舎への仕送りか、学費の支払いのどちらかを削らねば
ならないと、瞬時に頭の中で電卓を叩いていた。

---(今月は、まだ言えない。。。)

                       (第十八話 了)
 
 

          第十九話 「怪しい煌き」

 肥田の指名がトイに変わってから、ジョイとの関係はギクシャク
していた。トイも今までのジョイへの恩があるので、肥田からの指
名が入り出した頃、ジョイと話しあおうとした。

---肥田さんと何かあった?肥田さんはもう話しをつけてあるって
  いうんだけど。
---ああ、この世界じゃよくある話よ。貴方は気にしなくていいから。
---けど、なんでよりによって私なのか、わからない。
---あのね、私に言わせれば、肥田さんはもう「使い古し」だからねっ
  いちいち気にしてたらこの世界じゃやってけないわよ。

 ジョイは表面的には好意的にトイに対してくれていたが、女とし
(面白くない)のは事実であろうと、トイは思っていた。
 ジョイは自分以上にプライドの高い女で、昔っから親戚内では何かと
 張りあってきた二人なので、トイとしては簡単に割り切れずにいた。

 とはいえ、今月は何かと物入りで肥田の指名や同伴なくしては給料
に響くことがわかっていたので、ズルズルと肥田のアプローチを受け
入れていた。

 月末が迫ったある日、肥田はトイを同伴に誘った。

---おめでとう、今日誕生日だろ。
---えっ、覚えていてくれたんですか?
---こういうことは忘れない。

 そう言いながら、セカンドバックから『エンポリアム』で買い付けた
ことが一目分る包装紙の品物をトイに差し出した。

---気に入るかどうか、貰ってくれ。

 トイも女である。誕生日にプレゼントを寄越す男に怪訝な顔にはなら
なかった。いや、むしろ嬉しかった。
 もう随分の間、男からプレゼントの品など貰っていなかった。

---開けて見ていいですか?

 肥田の目が優しく頷く。

 それは、ダイヤをあしらったプラチナの指輪であった。そういう物に
いくら縁が無かったとはいえ、どれほどの金額がするものかはトイにも
想像はついた。

---こんな高いもの。。。戴くわけにはいきません。

 それはある意味、本心で言っていたのかもしれない。もしこれを受け
取れば、後戻りできないような重圧をトイに与えるような物であったの
だ。

---いいんだ。貰っておけばいい。それくらいのことで君を拘束するつも
  りはないよ。

 その言葉が本当か嘘か考える前に、トイはその煌きに負けて指に通した
くなった。色白の細い指にはラッチャダー辺りの露店で買った199バーツ
均一の指輪が恥ずかしそうに下を向いていた。

---ほーら、すっごく似合うよ、綺麗だ。

 それを通した指をピンっと天井に向け、仰ぎ見るようにかざしてみせた。
この時トイは、自分も女なんだとつくずく思い知らされた。心の奥の女
にしかないものを、その輝きは擽り、そして有頂天にすらさせた。

---(私だって、こういう物が似合うんだわ)

 それは、麻薬のようにトイの神経を麻痺させてゆき、感覚を失わせるに
は充分な効果があった。
 嬉しそうに何度もそれを眺めて見るトイを、肥田の動物的な鋭い目が捕ら
えて離そうとはしなかった。

---コープ クン マーカァ

 トイは、「毒」を飲んでしまった。

     =========================================

 佐藤は、ジョイからトイと肥田の関係を聞かされていた。どうにか佐藤に
感ずかれることなく、肥田との関係を断ち切ったジョイは、面白おかしくそ
れを喋った。
 佐藤は、肥田とトイの関係を聞いて驚いたのは、何故それを加瀬は指を咥
えて見過ごしているのかということであった。
 肥田がトイの何を狙っているかぐらいは誰だってわかることである。

 意味不可解な加瀬の無関心さに何故か苛立ちを覚える佐藤であった。
 そして、そのことをもし、加瀬が知らないのであれば、黙っていてやろう
か、それとも火を点けてやろうか、そんなグレイな色で思い巡らせた。

 数日後、昼時のキャンティーンで佐藤は加瀬とタイ飯を選んでいた。
 加瀬は、どれでもいいと、言わんばかりに適当に二品指差し、20バーツ
を支払って、席へと向かった。

---肥田社長も随分ですよねー。
---ん?何が。

 惚けているのか、本当に知らないのか、その表情からは読み取れなかった。

---トイちゃんと頻繁に同伴したり、誕生日にプレゼントをしたりしている
  らしいですよ。
 
 佐藤は、余計なお節介だと言われても、言わずにいられなかった。

---そうなの。最近、会ってないし、彼女とは。

 一瞬であるが、加瀬の視線が空を切ったの見逃さなかった。

---(やっぱり、動揺してるな)

 口の中で舌が痺れていた。緑色の香辛料が、佐藤の脳神経を刺激し、涙が
出そうになったが、何故か爽快な気分の佐藤であった。
 

                         (第十九話 了)



            第ニ十回 「 再会 」


 正直、加瀬は臍を噛む思いであった。
もともと、『MN電装』の肥田社長は生理的に受け入れ難い何かがあった
ので、無性に腹が立っていた。
 肥田の横恋慕もそうであるが、何故にトイが肥田などに靡いたのか、
むしろそちらの方が、悔しかった。

---(ふっ、所詮あの女も金や物欲だけの女だったのか)

 数ヶ月前、自らの胸を熱くした女への思慕の念は、どんどん萎んでい
くのが寂しくもあった。
 もとはと言えば、つまらない男の意地を張ったばかりに会うタイミング
を失い、その間隙を縫って、あの男に横取りされようとしているのだ。
 加瀬は常日頃から、冷静沈着に物事を捉えることが大人の所作であり
それが経営者にとっても無くてはならない素養だと思っていた。
 反面、心内では自分ほど、短期で怒りっぽい男はいないとも思っていた
のだ。それを押し殺して、周囲の人間に感づかれることなく立ち振る舞っ
ていくことに少々の疲れを覚えることがあったので、気を許した人間には
つい、その箍が外れてしまうことがしばしばあった。

 加瀬は昼時の役員室の窓から、従業員達が休憩を取る姿を見てとりなが
ら煙草を燻らせ、思考を巡らせていた。

---(どうせあの男のことだ、最後の想いを遂げるためならば金を使って
   とことん虜にするつもりだろう)

 自分もトイには手術代として融通してやった金がある。しかしそれは呉
れてやるということで自ら納得させていたので、自分と肥田を同列に置い
て考えることはしたくなかった。
 しかし、思えば、肥田の『やり方』はストレートである。つまりは、そ
の是非は別として実にわかりやすいのだ。

---(金を出してやるんだから、自分の物に成れ)
 
 二十代の若い女を腕の中で自由にするために、愛だ恋だなどといたった
妄想を捨て、現実的かつ合理的なやり口なのだ。

---(金に物を言わせて)

 全くそのものである。しかし、金の力というのは摩訶不思議というか到
底容認できないような理不尽ですら、白と裁定してしまうのだ。

---(お前だって、カッコ付けてるが実際のとこじゃ、同じ穴の狢だろうが)

 そんな闇の声が加瀬を打ちのめす。

---(そうなのかもしれん)

 あわよくば、二回り近くも違う若い女が自分に惚れこみ、金だ、妾だなど
といったダーティーな関係ではなく、---(俺は、俺だけは違うのだ)
 そんな優越感に浸りたいばかりに、ストレートな物言いを避け、木に成っ
た実が、ポトリと自らの掌中に落ちるのを待っている---そんな男なのかもし
れないと、暗い井戸の底へと突き落とされていくのであった。

 しかし、加瀬には今更、肥田の真似は出来なかった。
それこそ、仮面を剥がされた狼の素顔を見せることになり、相手の女の反応
よりも、自らのプライドが許さなかった。
 
---(加瀬さん、アナタもそうだったのね)

 そうトイに思われることが怖くて、このまま、肥田に横取りされようが
紳士面のままでいて恥をかくこともなくやり過ごそう、そうすれば失うもの
は少なくて済む。

 凡そ社会的地位を手に入れ、人に痛い所を突かれる事などなくなった男の
考えることは、そんなところなのだと、諦めの境地へと導いていくのであっ
た。
 灰皿に短くなった吸殻を押し付け、踵を返す勢いを意識して部屋を出よう
とした時、メール着信の「知らせ」がそれを止めた。


---お久しぶりです。今、何をしていますか? 会いたいです。

 繰り返して、読んだ。そして 加瀬は、その文面を「額面」のまま素直に
受け取ることにした。
すると、先程まで渦巻いていた暗雲が一気に晴れて行った。

 そして、思った。

---(ダメだ、やっぱり俺はこの女に惚れている)

 いつもの加瀬なら少し時間を置いて返信を打つのであったが、敢えて即応
することで、今までの自分のズルイ部分を打ち消そうとしたのかもしれない。

---今夜、きっと会いに行くよ。

「毒」を飲んでしまったことを知らずにいる女を、加瀬は再び思慕すること
になる。

                      (第二十話 了)



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