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カテゴリ:孫子の代まで
先週の読売の日曜版を読んで驚いた歌手で作曲家の平尾昌晃が我が故郷の塩嶺病院で療養生活をおくったことがあるというのだ。彼自身が寄稿したエッセーだから間違いはないのでしょうが。 彼は昭和43年頃から一年あまり岡谷塩嶺病院で結核の療養をしていたのだそうだ。彼が結核を患っていたのはきいたことがあるけれど、入院していたのが、故郷の病院だったとは全然知らかった。そのころ、私はもう故郷をあとに東京暮らしに入ってはいたのですが・・・ 塩嶺病院は、塩嶺峠に行く国道20号線がヘヤーピンカーブになっている場所にあります。母もこの病院の緩和ケア病棟で息を引き取りました。その昔は四日市喘息の療養所となっていたそうです。4年前に母がこの病院で亡くなった頃は、心臓疾患の外科治療で有名だったようですが、病室の半分は緩和ケア病棟(いわゆるホスピス)になっていました。 諏訪湖を見下ろす峠の中腹にある病院は、はるかに八ヶ岳を望む、それはそれは景色のイイ場所にあります。国道20号線はトラックも結構通るけれど、病院の前庭から諏訪湖を見ると、深呼吸したくなるようないいところなのです。 母は平尾昌晃が、からだをグニャグニャくねらせて歌う姿が好きだったから、同じ病院に入院していたことを教えて上げれば喜んだかも・・・ 平尾昌晃が塩嶺病院で療養していたことにもびっくりしたけれど、それよりもっと驚いたのは、彼は入院中につくった「私の城下町」とは諏訪市の高島城のことだったっていうこと! 塩嶺病院から、高島城がみえるかな? 肉眼ではどうかしら? 諏訪湖の畔にある、小さなお城だけれど目をこらせば見えるかも。 この歌の城下町とは、姫路とか金沢とか松江とか、そういう有名な街だとばかり思っていた。だって、「格子戸をくぐり抜け・・・♪♪♪」 っていうような街並みは高島城の周りにはあまり見かけないから。歌詞は安井かずみだから、平尾さんは高島城を見てイメージを膨らませただけだったのかも知れないけれど・・・ 彼のエッセーは、闘病時代に諏訪湖を見て慰められたって、本当に好意的な書かれていてうれしかった。諏訪湖の花火の美しさにも言及されていた。花火大会はスゴイけれど、本当は諏訪湖ってそんなにきれいじゃないし、ロマンチックな湖でもないけれどね。 でも塩嶺や高ボッチからみる諏訪湖、八ヶ岳、富士山の風景は、私にはちょっと自慢したくなる故郷の風景なのです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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