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テーマ:韓国!(17200)
カテゴリ:韓国
こんばんは、cheonyaです。 課題にてんてこまいです。でも日記書いてるんだね、やっぱ。 さて、ひさしぶりに朝鮮日報からのお話です。 日流小説ブーム到来という記事です。 タイトルを見て、「ほうほうそうなのか」と中身を読みすすめると、なにかとむかつかせてくれる文章です。 まず、村上春樹や村上龍が過去の人と言われている点。 韓国においてはそうなのかもしれませんが、その後の図書館での貸し出し数の多い作家の中に村上春樹が入っているという矛盾。 それくらいのことは、まぁ許しましょ。 でも、人気の理由を分析している中で「深く考えず、すぐに忘れることができて負担がない」ってどういうことさ? さらに「自然な翻訳がすばらしい」って、日本人作家ぜんぜん関係ないじゃないのさ。 韓国の小説を読んだことがないですからね、彼らの作るものがどれほど深いテーマを含んでいるかは知りません。 でも、決して日本の小説が軽いと言うことはないぞ。 私たちが書道や絵、彫刻などの芸術品を見るとき、多くの人はそのすばらしさが分からないか、分かったフリをしているだけ。 ある程度の知識がなければ、それを楽しめない。 正直、高名な書道家が書いた作品なんて、俺にとってはただの半紙以下の価値だ。 良さがわからないのはもったいないし残念なことだけれども、仕方ない。わからないんだもの。 小説だって、同じだと思う。 入り口が万人にとってとっつきやすいものであるから気づかないだけであって、その素晴らしさや深さを感じるにはそれなりに大変なはず。 つまり、絵画や彫刻、書道などを見て感動する感性と、小説を読んで何かを感じる感性はおんなじ。 もっと言えば、感じる以前に感じようとするかどうかが問題。 例えば、俺が書道を見ても、それが良いものかどうかを判断しようとしない。 ピカソがキュービズムを開拓したとき、誰もがそれを良いものかどうか判断しなかった。 さらっと上辺だけを見て、それ以上を考えるのをやめてしまう。無意識に。 考えるにも感じるにも知識が要る。 キリスト教やその歴史、教義に無知な人がアメリカの文学を理解できないのと同じように。 だから、書道の字ががミミズに見えるのはミミズとしてしか見てないと言うこと。 日本の小説が軽くみえるなら、それは軽くしか見てないということ。 もちろん、どうしようもない作品もたくさんあるわけだけどね。 「韓国作家の小説はとても深刻で深く真剣」だとか言ってるけど、頭についたテーマに踊らされているだけじゃないの? そんな記事かいてると、「こいつバカ?」って思われちゃうよ、俺に。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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