イエスがツロの地方に行かれると、
悪霊に憑かれた小さい娘のいる女がやって来て、
足下にひれ伏し、
娘から悪霊を追い出してくれるように頼んだ。
するとイエスは、言った。
「まず子どもたちに満腹させなければなりません。
子どもたちのパンを取り上げて、
小犬に投げてやるのは良くないことです。」
女、「主よ。その通りです。
でも、食卓の下の小犬でも、
子どもたちのパンくずをいただきます。」
イエス「そうまで言うのですか。
それなら帰りなさい。
あなたの娘は治っています。」
(マルコ7:24~30要約)
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ここでのイエスさま、
私たちの知っているイエスさまと、
ちょっと違うと感じるかもしれません。
でも、確かにイエスさまはこうおっしゃったのです。
イスラエルの人々を子ども、
そして、イスラエル以外の異邦人を小犬にたとえながら、
神の救いはまずイスラエルからだと。
確かに、イエスさまが遣わされたのは、
まずはイスラエルの人々にまず福音を伝えるためでした。
他の聖書の箇所では、こうも言われています。
「私は、イスラエルの滅びた羊以外のところには
遣わされていません。」と。
でも、「小犬」なんてかわいらしいたとえを用いているのですから、
何も、冷たく女の人をあしらったとも言えないのでは?
冗談めかして、ここは一つ、
この女性を試してみようと思われたのかもしれません。
実際、最後には、
イエスさまはこの女の人の願いをかなえてあげています。
そうのです。
イエスさまは、この人の心の中を試したのでした。
一見冷たいイエスさまの言葉を通して、
この女の人の心の中があぶり出されます。
自分は2番目でもいい、
自分にはその資格がないと知っている、
でも、イエスさまの愛とあわれみにかけてみたい。
そんな謙虚な姿勢と、
イエスさまの愛に対する信頼。
そもそもイスラエルであろうと、
異邦人であろうと、
救われて当然の正しい人なんて、
この世にはひとりもいないのです。
自分の努力やふさわしさでは救われない。
みな、神さまのあわれみで救われるのです。
そのことをわきまえている分、
彼女の信仰は、
神に愛されて当然、
恵まれて当然と思い違いをしているイスラエルより、
すぐれているとさえ言えるでしょう。
救われて当然の人なんていない。
人はみな、
イエスさまの十字架を通して、
ただ恵みだけで救われる。
そして、神さまの恵みは、
食卓からこぼれ落ちるほどに、
あふれているのです!!