所詮言葉の問題ですか-損害とは何か(差額説と損害事実説)
不法行為における「損害」概念の理解として、差額説と損害事実説とがあるんですが、たとえば、次の場合、損害のあるなしはどうやって判断することになるんでしょうか。事例1 AはBから100万円盗んだ。ゆえにBは所持金ゼロになった。事例2 AはBから100万円もらった。ゆえにBは所持金ゼロになった。直感的には、1はBに100万円の損害あり、2はBに損害なし、って結論になるんでしょうが、損害事実説では、「損害」要件レベルで1と2を区別することはできなそうなんですけど。差額説だと、「加害原因がなかったとしたならばあるべき利益状態と、加害がなされた現在の利益状態との差」が損害だから、事例1では、AがBから100万円を盗まなければBは100万円をもっていられた、という状態と、Aが100万円を盗んだことによりBは現在所持金ゼロである、という状態を比較してその差である100万円が損害になると。 あるべき利益状態 100万円 現在の利益状態 0円事例2では、Aは自分で望んでBに100万円を渡したから所持金ゼロであることはあるべき状態であり、現在の利益状態と差がないから損害はないってことになると。 あるべき利益状態 0円 現在の利益状態 0円ところが、損害事実説では、「怪我したこと自体が損害だ」というのと同じ観点で1、2を見ると、Bが所持金をもっていない状態が損害だってことになりそうで、そうすると、事例2もBは所持金をもっていないから損害ありってことになりますよね。怪我したことが自然現象によるものか人為によるものかってことは「損害」の有無とは関係ないわけだから、盗まれたかあげたかってことも損害の有無とは関係ないんでしょうし。けども、それってどうも日本語として不自然。損害概念からいろんなものを落っことすことで、大切な何かを失ってしまったみたいな。まあ、差額説が損害概念にいろんなものをぶち込んでいるのもどうかと思いますが。損害の定義上、損害の有無を判断する際に、権利侵害や因果関係の一部分を一緒くたに判断することになるみたいだし。損害事実説から言わせれば、事例2は「権利侵害」要件で落っことせるから「損害」要件で区別する必要はない、ていうか権利侵害要件さえあれば損害要件なんていらなくねえ?、ってことなんでしょうけども。まあ、すべての要件を通じて妥当な結論が導けるならば、どこの要件で何を検討することにするかなんてことはたいした問題ではない、とは私自身も思うんですけどもね。ちなみに、刑法学説における「結果」概念は、伝統的には(たとえば殺人罪では)死それ自体だと考えられていたと思いますけど、最近では、死期を早めたとか、というように「利益状態の不利益変更」と考える人がでてきたわけですよね。そうすると民法学説とは旧説と新説が逆転してることになりますよね。差額説が因果関係の問題を取り込んじゃっていることと対応するのかどうか、刑法新説は、主に因果関係の問題解決のために結果概念を「変更」と捉えているようなんですよね。昔読んだ教科書レベルの知識で書き散らしてみましたので、たぶん不正確。こういう問題に触れているかどうかは知りませんが、そのうち、高橋眞『損害概念論序説』を読んでみようと思います。途中で投げ出しそうだけど。