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テーマ:☆家族ネタ☆(23)
カテゴリ:家族の話
今回は時々登場する、私の母のお話です。今まで何回か、母と私のまぬけな話を書きましたが、このブログの存在を、母のことを書いたことを知られれば木刀を持って追いかけられること間違いなしです。
母は昭和19年に竹田の市内に生まれました。子どもの頃を昭和20年代から30年代の古きよき昭和の時代を過ごしました。今は過疎化も進み、観光業で細々と持っている竹田の町も、母が子どもの頃はちょっとしたお町だったのだそうです。活気のある商店街、映画館や劇場もあり、美空ひばり、高倉健、小林旭といった大物がコンサートを開いたりしていました。余談ですが、私の亡くなった祖父は板前でした。久住高原に高倉健が映画の撮影に来たときに、スタッフの食事を作っていたのだそうです。 母はおませで、ちょっとした悪ガキでした。そんな母の親友は、竹田のやくざの親分の一人娘。竹田にもやくざはいたんですね。母が銭湯に行ったとき、親分さんが来ていた時にはお風呂代も払ってくれた上に、お風呂上りのジュースまでご馳走になっていました。ちゃっかりしているわ。親分には娘同様にかわいがってもらっていたんだそうです。 そんな母の武勇伝とは…。ある日、母はいつものように親分の娘と遊んでいました。何を思ったのか、2人は床屋さんごっこを始めました。母が床屋さんで、友だちがお客さん。しかも、本物のはさみを使用。母は、友だちの頭を虎刈りにしてしまいました。やくざの親分の娘を虎刈り…。今の時代なら親が真っ青になって平謝りだろうけど、なんのお咎めもなく、親分も親に文句を言いにいうこともなく、笑って許してくれたのだそうです。叱られもしなかったとか。 「だって、友だちやったんやもん」 と母は言います。この怖い物知らずの性格は、この頃から出来上がってきていたのか…。 中学を卒業して、母は酒屋で働くようになりました。母は女4人に男1人の5人きょうだい。母は上から2番目ののんきな次女でした。母親がいなかったので、母の姉はみんなの母親代わりで厳格な人でした。私たちが子どもの頃には、この伯母に相当厳しくしつけられました。しかし、母は派手好きで流行に敏感、服も既製品なんて買わずに全てオーダーメイド。しかも全部ミニスカートでした。昔の母の服を見ると、60年代のワンピースがすごくかわいいんです。給料の大半は洋服、化粧品、夜遊びに費やしていました。 夜遊び…。そう、母はよくダンスホールに通っていたのです。祖父は厳しい人だったので、そんなことは許しません。こっそり出て行って、夜中に末の妹の部屋の窓から帰っていていたとその叔母が話してくれました。実は、私の両親が出会ったのもダンスホール。父は当時町役場の公務員で、職場の人と社交ダンスを習っていたのだそうです。今はがさつなおっさんが社交ダンス。人からこの話を聞いたときは目が飛び出そうになりました。 で、当時には珍しくできちゃった結婚。だって、10月に結婚して、5月に私が生まれているんですよ。両親はお見合いだと信じていた私、大学へ入学するときに自分の戸籍謄本を見てかなりびびりました。 今はものすごく強く、近所の婦人会のドンと化している母、売られたけんかはもちろん、落ちているけんかもわざわざ拾って参戦する母も、お嫁に来た当時には祖母にものすごい嫁いびりを受けていたのだそうです。とても信じられないわ。 私の気質は母にそっくりなんだそうです。母も認めています。私は認めたくないのですが。時々とんでもないことを言ったり、我の強い私に 「困った子が生まれたもんじゃ」 と母が言います。 「困った親から生まれたもんじゃ」 と負けずに言い返す私。お互い罵り合っているのに、楽しいんですね、これが。私も年を重ねると、この母のようになるのでしょうか…。でも、売られたけんかは買っても、落ちているけんかは拾いませんよ。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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