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テーマ:マイノリティなあなたへ(59)
カテゴリ:my gaylife
アメリカ先住民と毛皮の取引をするために、開拓時代の北米大陸にやってきたフランス人やイギリス人の毛皮商人は、 先住民の部族の中に少なからぬ数の女装の男性が混じっていて、彼らが部族の仲間たちの尊敬を受けていることを知って驚きます。 このような女装の男性は、アメリカ先住民の大半の部族に存在し、毛皮商人たちは彼らを「ベルダーシュ」という名前で呼びました。 ベルダーシュとは、ペルシャ語起源のフランス語で、「稚児」あるいは「男色相手の少年」を意味する言葉です。 ベルダーシュは現在でいうところの性転換者ですが、男の身体をもって生まれながらも、心は女性であると考えて、女装して女性として生きるベルダーシュとそれより数は少ないものの、 女の身体をもって生まれながらも、心は男性であると考えて、男装して男性として生きる2種類のベルダーシュが存在しました。 アメリカ先住民は、ベルダーシュを男性にも女性にも属さない第三の性として扱い、 部族によっては男性から女性に性転換したベルダーシュを第三の性、女性から男性に性転換したベルダーシュを第四の性とみなして、彼らにふさわしい生き方を認めていました。 男性から女性に転換したベルダーシュは、本来は女の仕事である食料の採集や陶器やカーペットなど 工芸品の製作に従事し、部族間でもめごとが起きたときの交渉役や宗教儀式の司祭役を務めました。 女性から男性に転換したベルダーシュは、本来は男の仕事である狩猟に従事し、 戦争のときには戦士として戦い、ときには部族を率いる酋長になりました。 男性から女性に転換したベルダーシュは普通の男性と、女性から男性に転換したベルダーシュは普通の女性と結婚して、それぞれの配偶者の妻あるいは夫として暮らしたといわれています。 特定の人間がベルダーシュになるのは、超自然的な作用、つまり神の意思によるものと考えられていて、 そのような子供は小さいときから、男の子であれば女性の仕事に興味を示し、女の子であれば男性の仕事に興味を示し、それらの仕事に才能を発揮することから判別できたといわれています。 いくつかの部族では、男の子がベルダーシュであるかどうかを確認するための儀式が家族によって執り行われたそうです。 男の子を、真ん中に弓(ゆみ)と籠(かご)を置いた円形の地面の中に入れて、周囲を藪(やぶ)で囲んで火を放ち、 男の子が男の仕事である狩猟を象徴する弓をもって逃げたら普通の男の子、女の仕事である採集を象徴する籠をもって逃げたらベルダーシュであると判定したといいます。 私が子供の頃、このテストを受けていたら絶対、籠をもって逃げていただろうと思いますね。(笑) ベルダーシュであると判定された女性的男性や男性的女性は、男性と女性の精神を兼ね備えていると考えられ、 世界を男の目でしか見ることのできない普通の男性や、女の目でしか見ることのできない普通の女性とは異なり、男女の性を超越した観点から世界を見ることができると考えられていました。 またベルダーシュの多くは、霊的な力を神から授けられていて、神と交信することができると信じられていました。 そのため、ベルダーシュはほかの部族の成員から尊敬を受け、祈祷師や祭りや儀式をつかさどる司祭、部族のリーダー、男女間の揉め事の仲裁者、異なる部族や外部世界との交渉役など、部族社会で重要な仕事を任されていたのです。 女装の男性がシャーマン(巫師)として祈祷や宗教儀式を行なう例は、アメリカ先住民だけでなく、北東アジアや東南アジア、南米や西アフリカのシャーマニズムを信仰する部族の間にもかって存在し、現在でも一部の地域には存在します。 日本でいえば美輪明宏さんみたいな感じでしょうか。あの方も霊能者だといわれてますから。 西洋キリスト教圏では、ベルダーシュのような女性的男性あるいは男性的女性で、同性としかセックスしない人間は、性倒錯者あるいは同性愛者として差別や迫害の対象になりましたが、 これはキリスト教が反生殖的なセックスを罪深いものと考え、同性愛をその象徴とみなしたからです。 一方、アメリカ先住民は、セックスを生殖目的のセックスと快楽目的のセックスに分けて考え、後者を罪深いものとはみなしませんでした。 罪深いどころか、セックスは健康に良いとされ、みんな積極的に楽しんだそうです。 その結果、生殖目的のセックスを行なわず、快楽目的でしかセックスを行なわないベルダーシュは、快楽的なセックスのシンボルになったのだそうです! 実際、男性から女性に転換したベルダーシュには、性的に活発な人間、つまり淫乱な人間が多かったといわれています。 また女性から男性に転換したベルダーシュには、性病の治療を専門とする医者の仕事をする人間が多かったといわれています。 このような性にたいして大らかなアメリカ先住民の生き方は、北米大陸に開拓者として最初に移住してきた清教徒のイギリス人の禁欲的な生活とは対照的なものでした。 そのため、アメリカ先住民がイギリス人移住者によって虐殺、征服され、狭いインディアン居住地に閉じ込められていく過程で、 アメリカ先住民の文化や伝統、特にベルダーシュに象徴されるような先住民の性的価値観は否定され、 抑圧されるようになります。 先住民の部族を征服した白人は、女装したベルダーシュを捕らえて、女のように長く伸ばした髪を短く切り、無理やり男性の衣服を着せて、彼らを辱めたといいます。 また先住民の子供を集めてキリスト教の宣教師が経営する寄宿学校に入れ、そこで同性愛は悪であると説き、男が女装することは恥ずかしいことであると教えて、 いたずらをした男の子に罰として女装させ、ほかの子供たちにからかわれるように仕向けることで、ベルダーシュ的な価値観にたいする否定的な感情を子供たちに植え付けたといわれています。 このような先住民にたいするアングロサクソン的価値観の押し付けの結果、20世紀初頭には先住民の部族からベルダーシュは殆ど消えていき、 時とともに先住民自身、ベルダーシュの伝統を忘却し、アメリカの白人社会のホモフォビアの風潮に染まっていったそうです。 白人による征服以来、同性愛者が差別され、迫害されてきたアメリカですが、60年代末のNYで起ったストーンウォール事件をきっかけに同性愛者の解放運動が盛んになります。 このゲイリブ運動の高まりを受けて、1970年代に入ると、アメリカ各地やカナダの先住民の同性愛者たちもアメリカ先住民のためのゲイ団体を立ち上げるようになります。 その後、1980年代に入ると、アメリカ先住民の伝統や習慣を見直す動きが生まれてきて、かって先住民の部族に存在したベルダーシュにもスポットライトが当てられ、その再評価が行なわれるようになります。 その結果、1980年代の終わり頃には、アメリカ先住民の同性愛者たちは、みずからの人種的、文化的アイデンティティーを自覚するようになり、 自分たちをゲイあるいはレスビアンと呼ぶことをやめて、Two-Spirit(二つの魂)と呼ぶようになります。 このTwo-Spirit(二つの魂)という言葉は、同性愛者というのは、男性と女性の二つの魂をもつ、神から祝福された特別な人間であるという、ベルダーシュの伝統を受け継いだ、アメリカ先住民の同性愛者観を表しています。 先住民の同性愛者たちは、征服者の白人の言葉であるゲイやレスビアン、バイセクシュアルなどという言葉を使って自分たちを定義することにずっと違和感を抱いていたといいます。 実際、同じ同性愛者といっても、罪深い人間としてずっと差別され、迫害されてきた白人同性愛者と、 特別な人間として祝福され、尊敬されてきたアメリカ先住民の同性愛者とでは、当然のことながら、 同性愛者としての意識も異なってきます。 同性愛者であることを肯定的に捉え、同性愛者を尊敬した部族的伝統をもつ先住民の同性愛者たちは、 白人同性愛者のように「差別される少数者」というアイデンティティーや被害者意識をもたずにすむのです。 またあくまでも男性であることにこだわる白人ゲイと、自分たちを男性と女性の両方の精神を兼ね備えた両性具有的存在であると考える先住民の男性同性愛者の間には、同性愛者の定義をめぐっても大きな隔たりがあります。 先住民の同性愛者たちはさらに、白人たちが自分たちを呼ぶために使い始めた「ベルダーシュ」という言葉を使うことも拒否するようになります。 ゲイやレスビアン、バイセクシュアルだけでなく、ベルダーシュも含む、性的嗜好に関連して白人が使用するすべての言葉を使うことを拒否し、 伝統的な部族文化の価値観を表すTwo-Spirit(二つの魂)という言葉を用いることで、白人の文化的覇権主義に抵抗するようになったのです。 男性の同性愛者も女性の同性愛者も同じTwo-Spirit(二つの魂)という言葉で呼ぶことはそれ自体、 同性愛者をゲイ(男性同性愛者)とレスビアン(女性同性愛者)に区別する白人文化に固有の二項対立式発想にたいする批判になっています。 一般的な性的嗜好や性行動についても、アメリカ先住民と同性愛者を含むアメリカの白人とでは大きな相違があります。 白人は同性愛者と異性愛者の間にはっきりとした線を引きたがりますが、アメリカ先住民の性的嗜好や性行動は、人生のサイクルの各段階やその場の状況に合わせて変化します。 思春期には同性とセックスしていても、一定の年齢に達すると異性とセックスするようになり、やがて異性と結婚するものの、 結婚後もそのときの状況に合わせて同性とセックスするというようにきわめて柔軟かつ流動的に変化するのです。 このような性的嗜好の流動性というのは、ポストモダンの先端を行く考え方であると同時に先住民の伝統や習慣にも合致するわけで、 先住民の同性愛者が、男性と女性、同性愛者と異性愛者といった二項対立的発想から抜け出せないでいる白人のゲイリブ運動を離れて、より柔軟で寛容な先住民の伝統的価値観に回帰していったのは、自然の流れだったと思いますね。 このアメリカ先住民の同性愛者のゲイリブ運動の変遷は、日本のゲイリブ運動の進め方にも大いに参考になると思うのですが、相変わらず白人のゲイカルチャーこそが自分たちが見習うべき手本だと信じ、 周回遅れのビリのランナーをトップランナーと勘違いして、ひたすらその後を追いかけているような日本のゲイリブ活動家にそんなことをいっても、馬の耳に念仏でしょう。 参照文献: Changing Ones by Will Roscoe お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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老眼には厳しかったけど、興味深くて、思わずじっくりと読みふけってしまったよ~。
アメリカ先住民と言うと、子育てに関してとても有名な教えがあるの。 http://www.eonet.ne.jp/~th69/osie/osie.html でもベルダーシュというのは初めて知ったなあ。 男の子がベルダーシュであるかどうかを確認するための儀式っていうのは、 何歳くらいの子が対象なんだろう。 ベルダーシュか否かを確認するための儀式だと伝えるてから実行するのかとか、 少し細かいことがわからないね。 追い詰められた時にとっさにどちらを持って逃げるかだから、 予備知識なしで実行しないと、真偽がわかりにくいんじゃないかという気もするし。 ベルダーシュが、そんなに昔に既に受け入れられた存在だったっていうのが、流石だなあという印象。 いや「受け入れる」という言葉が当てはまるかどうかっていうね。 それくらいナチュラルなことなんだろうと思ったなあ。 (August 21, 2016 08:37:40 AM)
この時代に生まれていたら私もやっぱり籠をもって逃げたと思うなぁ 笑
現に私の仕事は服飾関係と言う上の写真のように機を織る仕事と共通しているじゃん 昔も今も同じだね 平和な暮らしを侵略してくる敵(他国民)にとって平和が踏みにじられる、大人しい平和主義の先住民は野蛮な侵略者によって踏みにじられていく… アメリカ先住民はこの時代に於いて全て悟り素晴らしい国家を樹立していたんだね もう一つ「たかちゃん」という人が書いたコラムがあったので載せて置くね ******* アメリカ先住民社会には伝統的に、異性の衣服を着、異性のように振る舞い、異性 の役割をする存在があった。こうした存在をベルダーシュという。ベルダーシュは男 女両性にありうるが、先住民社会においては女の性役割をする男が一般的である。彼 らは生物学的には「男性」のままであるが、女装をし、女性語を使い、女性に期待さ れた社会的役割を果たした。 ベルダーシュは、ラコタ・ス一族のウィンクテ、クロー族のパテ、モノ族のタイア プ、ズニ族のラマーナ、ナヴァホ族のネードル、アコマ族のムヘラドス、バノック族 のツヴァサなどが知られているが、ベルダーシュが存在したのは文献上確認されてい るだけでも一一三部族を数え、範囲も全米に及ぶ。またそれぞれの部族における固有 の呼称から明らかなように、ベルダーシュは女性でもなく男性でもない第三の性ジャ ンルを形成する先住民特有の文化ともいえる制度である。 ○ ベルダーシュの認知は、おおむね彼らの年少時に行われた。尚武の伝統の根強いラ コタ・スー族やシャイアン族といった平原部族において、少年は幼いころから敵対部 族から馬を盗んだり勇敢に戦う男たちを見ながら育ち、遊びの中で大人を模倣する。 しかし中には「少年の遊び」に興味を示さない子供もいる。また彼の振る舞いが「女 の子」らしいと判断されると、ある種の試験のようなことが課される。ティーピィー の中に招じ入れられた少年は、左右に分かれで置かれた肉削ぎ刀と弓矢との、どちら かを選ぶというものだ。革なめしに使う肉削ぎ刀は女の仕事、狩猟と戦いの必需品の 弓矢は男の役割の象徴である。そこでの子供の選択(肉削ぎ刀を選ぶ)によってベル ダーシュとして公に認められる。 ベルダーシュとして社会的認定受けた以降は、女装をし、女性特有の挨拶、感嘆詞、 接尾詞を駆使して女性語を操った。長じては美術工芸品の制作など、女性特有の仕事 に、優れた技量を発揮したベルダーシュは少なくない。 ○ ベルダーシュは両性をもつことで、全き完全な存在、それゆえに男や女より優れた 神に近い存在と見なされることもあった。 (『アメリカ先住民から学ぶ』 阿部珠理) ○ とても興味深かったので、引用しておく。 いわゆる「同性愛」や「性同一性障害」などは、現代では、ようやく認知されるようになって きた、というくらいの段階で、まだまだ「差別」や「偏見」があると言っていい。 だが、古代のインディアンの人たちは、よく子どもたちを観察する中で、「男性」でもなけれ ば、「女性」でもない<性>を持つ人たちがいることを、ちゃんとわかっていた。そして、それ は<両性>を持つということで、男や女よりも、神に近い存在、と見なされた。 西洋では、キリスト教の影響によって、「男性」と「女性」という存在以外は、「異端」とさ れてしまったのだろう。 それに比べて、インディアンの叡智は素晴らしい、と言うべきなのではないだろうか。 「男性」でもなければ、「女性」でもない。 そんな<生(性)>の様式が、社会(世界)の要素として、ありえるのだ、と直観として 理解できているように見える。 現代社会は、まだこの地平線には、到達できていない。 (August 21, 2016 05:38:05 PM)
壽蛇ちゃん
本当、ただただ感心することしきりだわ…。 男の遊びに興味を示さない男の子、またその逆の女の子がいて、変だと思わずに 居ることが普通っていうのはすごい認識だと、現代の日本に生きる私は思う。 それは私に限ったことでなく、この世間のほとんどがそうなんだと思うけども。 この先の理想として、「存在する」ことが普通。 人間には始めから第三の性が存在していた。 という認識を持てることが一番なのかもしれないね。アメリカ先住民のように。 スタートラインをいったんゼロに戻して、第三の性が最初から存在するのが普通の歴史を、 始めることができたらいいのにね。 この予備知識が無かったら、私ならどっちを持って逃げただろう…。 私は本当、どっちにも興味があるのでわからないわ。 手芸や裁縫のような細かいことも得意だったけど、工具をいじるのも好きだったのよね。 でも自分の心が男である認識はなく、女だと思っている。 いや~他者から見た異論は、どうかわかりませんが…。 小学校までは男の子と遊ぶことの方が、圧倒的に多くて楽しかったなあ。 ああ、そうそう、アメリカ先住民の中に「いじめ」という概念はあるのかしらね。 アメリカ先住民の普段の生活自体が話題になることがめったにないので、 今彼らはどうしているんだろうと思うことはあるなあ。 (August 21, 2016 07:04:18 PM) |