2016/07/25(月)02:03
【災害記録帳】1982長崎豪雨災害
1982年7月23日の夕刻、長崎県南部が集中豪雨に見舞われ、直撃された長崎市街地では、帰宅途中車など2万台と推定される自動車が被災するなど都市機能がストップし、市内に多く見られる住宅の密集した傾斜地が土石流に襲われ、死者・行方不明者299人という大きな災害になった。
17時から1時間の雨量は、それまで最高とされていた1957年の諫早豪雨をしのぎ、国内観測史上最高の187mmを記録。
どうしてもこの1時間雨量に目を奪われがちだが、19時からの3時間雨量も当時観測史上第3位となる366mmを記録しており、激しい雨が数時間続いたことが大きなダメージとなったことが分かる。
さらに気象庁の資料を見ると、23日以前にも11日以降で大雨洪水警報が4度発表されるなど、雨量の蓄積があったことも見逃せない。
<長崎地方気象台HPより>
長崎市は、山と海が迫る地形が特徴で、山地と谷間の土地を利用して都市域を広げてきたことから、郊外では土砂災害が発生しやすく、市街地を流れる河川も急勾配となるため急激に増水するケースも多く、氾濫の危険性は高かった。
郊外部では同時多発的に土砂災害が起こり(県内で4,457箇所)、多くの死者・行方不明者(262人)が出た。
都市部では長崎市内を流れる中島川、浦上川及び八郎川が氾濫したことで、死者・行方不明者37人という人的被害以外にも甚大な経済的被害をもたらした。
折り悪く豪雨が帰宅時間と重なったことで、車の中で亡くなったという人もいた(出水12人、土砂5人)ほか、流された車が水や漂流物をせき止める形となり、交通を寸断させたことで被害を拡大させた。
車の被災台数は約2万台ともされる。
<国土交通省九州地方整備局HPより>
長崎市民病院では中島川と銅座川の氾濫により、地下と1階部分が冠水したことで、自家発電装置も含む電気設備やがストップして、医療機関としての機能が失われた。
長崎市立成人病センターも同様の事態になり、医療施設の水害対策の不備が浮き彫りになった災害でもある。
一方で地理的にも近く、同様の大雨に見舞われた諫早市では被害が少なく、1957年の諫早水害後の河川改修等の水害対策が功を奏した形になった。
多くの犠牲者を出した土砂災害については、市街地やその近郊の住宅密集地域で発生しており、こうした既存の密集地域ハード対策には限界があることから、避難や防災意識の啓発、住民による自助・共助などソフト面の対策が議論される契機ともなった。
なお、中島川に架かる国の重要文化財眼鏡橋の復旧に際して、地域の代表も参加した「長崎防災都市構想策定委員会」での議論を経て、元の場所に保存しながら両側にバイパス水路を設けるという、防災と文化財保存を両立させる形で勧められている点も興味深い。