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カテゴリ:サ~ソ
ジェーン・フォンダ、彼女の演技に私は涙をこぼしていた。フォンダ親娘の永年にわたる確執を知る私は親娘の和解を願っていた。それが見事な形で表現されたのだ。 名優フォンダの遺作となった名作「黄昏」、この作品は娘ジェーンが父のために映画化権を私財を投げ出して買取り、マーク・ライデルの監督、老夫婦役に父ヘンリー、妻役に名女優キャサリン・ヘップバーンを配し、避暑地を舞台に”人生の黄昏”を描いたものである。 黄昏 父ヘンリーは娘ジェーンのオファーを快諾、入魂の演技を見せた。そして、娘の望んでいた通り、81年度アカデミー主演男優賞を獲得。ゴールデン・グローブ主演男優賞とのダブル受賞になった。 フォンダは永年の映画生活で、アカデミー主演男優賞を一度も手にすることが出来なかった。彼の心残りはそのことだった。それを知る娘ジェーンがその場を提供したのだ。父に心を開いたジェーンは父のために喜び、その頃には寝付いていた父の代理でオスカーを受けた。 「ああ、パパ! 本当に嬉しいし、パパを誇りに思っているわ」と、アカデミー授賞式の会場で、ジェーンは父の病床に向かって叫んだのだ。 ジェーンは1937年12月21日、ニューヨーク州ニューヨーク市で生まれた。父のヘンリー・フォンダ、弟のピーター・フォンダも俳優で、姪のブリジット・フォンダも女優。 49年、父ヘンリーは母フランシスに離婚を宣言、そのショックがもとで翌年4月、妻は自殺する。それにも拘わらず、父はフランシスの死後、3ヶ月で再婚。この”事件”以来、12歳のジェーンは父親に強い反発を覚えるようになった。 彼女は”アメリカの良心”と謳われ、名優として賞賛されていた父にことごとく反発、57年、絵の勉強のためにフランスに渡った。だが、目的を果たせず半年足らずで帰国。 その後、リー・ストラスバーグの演劇学校で学び、雑誌のモデルなどをして糊口をつないだ。そして、1960年に「のっぽ物語」で映画デビュー。 63年、ルネ・クレマン監督に請われてフランスへ渡り、「危険がいっぱい」に出演。この時、パリ留学時代に面識のあったロジェ・ヴァディムと再会、「女優の美を磨く天才」といわれていたヴァディムに、ジェーンはたちまち恋をしていまう。 危険がいっぱいバーバレラ獲物の分け前 彼女はヴァディム作品「バーバレラ」「獲物の分け前」などに出演、知性に溢れ、的確なアドバイスをしてくれるヴァディムにジェーンは大きなやすらぎを覚えた。それは子供たちに常に高圧的だった父からは決して得られないものであった。 二人は結婚した。あくまでも反対だったヘンリーは式には姿を見せなかった。 60年代後半、ジェーンはベトナム戦争のニュースに大きな衝撃を受け、69年10月、インドで貧困の中に生きる民衆の姿を目の当たりにし、”政治”に目覚めた。そして、70年になるとベトナム戦争反対のデモに参加する。 1971年には「コールガール」でアカデミー主演女優賞を受賞するも反戦運動を続けたため、女優の仕事は激減していった。そんなジェーンの心に光を与えたのは、左翼運動家の指導者、トム・ヘイドンだった。ジェーンは別居中のヴァディムと73年に離婚、ヘイドンと結婚、女優の仕事も再開し、1978年に「帰郷」で2度目の主演女優賞に輝いた。 コールガール帰郷 仕事に恋に、さまざまな挫折を体験したジェーンは、ようやく父の”人生”を認めることが出来るようになってきた。彼女は老境に入った”アメリカの名優”にオスカーを取らせてやりたい、そう決心したジェーンは81年、「黄昏」を企画したのであった。それは父娘共演の最後のチャンスでもあった。 永年の確執を解消し、ジェーンが父を天国に見送ったのは、”オスカーの夜”から5ヶ月後のことだった。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2009.11.23 15:00:27
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