チューさんの今昔ばなし

2011/01/03(月)08:44

アメリカ軍、沖縄に上陸

私のブログ「チューさんの今昔ばなし」。また、66年前の昔に戻って、想い出ばなしを続けます。 昨年末は、昭和20年(1945年)の春、私が中等学校を卒業して、専門学校に進学したところまででした。 時代は、第二次世界大戦最末期。アメリカ軍が硫黄島を占領し、いよいよ、日本本土への攻撃、占領を狙う作戦に入った時期です。 アメリカは、はじめ、台湾攻略を考えたようですが、フィリピン奪回成功により、台湾占領は戦略的意義がうすれたと見て、沖縄侵攻に切り替えたとのことです。 沖縄は、日本本土への空襲と進攻の基地に最適なのはもちろん、戦後をも見据えて、中国・朝鮮半島などへのにらみを利かせるのに、重要な拠点となると見たのでしょう。 日本の大本営は、沖縄侵攻の可能性が高いと判断して、現地防衛軍に警戒度最高の配備を発令しました。 昭和20年(1945年)3月23日、アメリカ軍は、沖縄県一帯に、延べ2千機による空襲と、沖縄本島南部に、戦艦5隻からの艦砲射撃を行いました。そして、艦艇1500隻、輸送船450隻、兵員54万人もの攻略部隊を集結しました。 3月26日、アメリカ軍は、沖縄本島の西・慶良間(けらま)列島に上陸、座間味(ざまみ)島などを占領して、ここから沖縄本島南部への砲撃を始めました。                              アメリカ軍の沖縄本島上陸 4月1日、アメリカ軍は、守備の手薄な沖縄本島なかほどの西海岸から上陸開始。嘉手納(かてな)の飛行場を占領、4月5日には東海岸(現・うるま市)まで進んで、日本軍を本島の南北に分断しました。 4月6日から、日本陸海軍は、連合国軍艦隊・船団に対して、特攻機を中心とする猛反撃を加え、戦艦・大和(やまと)も出撃しました。                        多数のアメリカ艦載機から攻撃を受ける戦艦大和 この攻撃で、連合国軍の艦艇6隻を撃沈、ほかにも大きな損害を与えましたが、日本側も多数の航空機を失いました。そして、沖縄本島北部の坊の岬沖海戦で、戦艦・大和はアメリカ艦載機多数の攻撃を受け、大爆発を起こして沈没。日本海軍は最後の艦隊6隻を失ってしまいました。                                戦艦大和、大爆発を起こして沈没 沖縄本島北部では、日本軍の兵力は少なく、4月22日までにアメリカ軍に制圧されました。アメリカ軍は本部半島の対岸の伊江島を攻撃占領。この島に飛行場を設営しました。 日本軍の主力のいる沖縄本島南部でのアメリカ軍との戦闘は、劇烈を極めました。両軍とも多数の死傷者を出しながら、5月の始めから終わりまで攻撃、反撃を繰り返しました。アメリカ軍は首里市を占領するのに5月末までかかりました。                                焦土と化した那覇市 6月に入って、日本海軍陸戦隊は、陸軍部隊と別行動をとって戦いましたが、アメリカ軍に包囲され、6月中旬に壊滅しました。司令官・太田少将は、海軍次官宛に       「沖縄県民斯ク戦ヘリ 県民ニ対シ後世特別ノゴ高配ヲ賜ランコトヲ」 という、有名な決別電信を送ったのち自決しました。                               沖縄本島南部を占領したアメリカ軍 沖縄本島南部の陸軍部隊も、アメリカ軍に追い詰められて急速に戦力を失い、沖縄守備軍司令官・牛島満中将は摩文仁(まぶに)の司令部で自決、沖縄守備軍はほぼ全滅しました。6月25日、大本営は、沖縄本島での組織的戦闘の終了を発表しました。             * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * 戦後、沖縄は、5年余りアメリカ軍の軍政下に置かれ、講和後も、琉球列島米国民政府とその下部機関の琉球政府による統治が20年以上続きました。 施政権が日本に返還され、沖縄県が復活したのは、昭和47年(1972年)5月のことです。   

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