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昭和18年(1943年)9月8日、日独伊三国同盟のひとつ・イタリアが、連合国に無条件降伏しました。
この報道を聞いて、日本国民に大きな衝撃が走りました。 日本政府は、イタリアの降伏を裏切り行為として非難し、日本は、ドイツとの盟約を一層緊密にして、米英撃滅に邁進する旨の、帝国政府声明を発表しました。 三国同盟締結のころのムッソリーニ(左)と ヒトラー(右) 昭和18年(1943年)7月に、米英軍がシチリア島に上陸して間もなく、イタリアの独裁者・ムッソリーニ は、失脚して逮捕され、国王・エマヌエーレ3世は、バドリオ将軍を首班に指名していました。そのバドリオが連合国に降伏したのです。 バドリオ エマヌエーレ3世 この状況を察知していたドイツのヒトラー総統は、軍をイタリア国内に差し向けて、ムッソリーニを救出しました。 ドイツ軍に救出されたムッソリーニ(中央) ドイツ軍と、ムッソリーニ に従うファシスト軍は、バドリオ政府軍を攻め、首都ローマを占領して、イタリア社会共和国設立を宣言しました。 エマヌエーレ3世とバドリオは南イタリアに逃れて、イタリア国内は内戦状態になりました。 最終的には、ヨーロッパ全域でのドイツ軍の敗退とともに、イタリア北部では、武装蜂起(ぶそうほうき)したパルチザン(労働者・農民などの組織からなる非正規兵)が、敗走するファシスト軍を虐殺し始めました。 ムッソリーニ は、昭和20年(1945年)4月に、イタリア北部でパルチザンに捕らえられ、同月28日に銃殺されました。 * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * イタリアは日独伊三国同盟の一つながら、1940年11月のイギリスによるタラント軍港空襲で、海軍力の大半を失い、北アフリカ戦線でも敗北を重ねるなど、軍事的にはきわめて弱体な国でした。 国王・エマヌエーレ3世 は、国民の信望を失い、昭和21年(1946年)6月の国民投票で、イタリアは王制を廃して、共和国になりました。 バドリオも、南イタリアへ敗走するなどの指揮能力の無能ぶりを問われ、首相の座を追われました。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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