吟遊映人 【創作室 Y】

2017/03/05(日)12:59

あん

映画/ヒューマン(97)

【あん】 「私たちはこの世を見るために、聞くために生まれてきた。だとすれば、何かになれなくても、私たちは・・・私たちには生きる意味があるのよ」 花粉症に悩まされる季節になってようやく今年初めてとなる記事を書いた。 私事ではあるが、昨年の10月から職場が変わり、日常の生活リズムが変わった。 だからというわけでもないけれど、それなりに新しい顔ぶれに気を使い、新しい仕事を覚え、新しい居場所に必死にしがみついているような状況だ。 帰るなり夕飯の仕度という気にもならず、こたつで丸くなってピーナッツをつまみながらインスタントコーヒーを飲む。 そしてしばらくぼんやりする。 やっと気持ちを自宅モードに切り替えると、ようやく台所に立つのだ。 今月で今の職場に採用されてやっと半年となる。 少しずつ、ほんの少しずつだが自分の時間をうまく作り出そうという気になって来た。 手始めにTSUTAYAに行こうと思った。 見たい作品はいくらでもあるが、今の私のメンタルにそっと寄り添うような作品となると、かなり絞り込まれる。 今回は邦画にしてみようと思った。 私が手に取ったのは、『あん』である。 甘党の私にはふさわしいタイトルだと思った。 ストーリーはこうだ。 桜並木に面した一角に、小さなどら焼き屋がある。 雇われ店長の千太郎はワケありの過去を持つ身で、寂しくつまらなさそうな顔つきで、毎日どら焼きを作っていた。 満開の桜には不釣り合いなほど陰気で、暗く、ちっぽけな店だった。 そんな店に、徳江という風変わりな年寄りが現れる。 時給は200円でいいから働かせて欲しいと言う。 店先に貼られたバイト募集の貼り紙を見たらしかった。 だが千太郎は、70代半ばだという徳江を軽くあしらい、どら焼き1個を持たせて帰らせてしまう。 後日、再び現れる徳江は、千太郎に餡がそれほど美味しくなかったと言って、持参した手作りの餡を千太郎に食べるよう勧める。 千太郎は、徳江からもらった餡をなめてみて驚く。 それは、これまで食べて来た餡とは比べものにならないほどの美味しさだったからである。 千太郎は徳江を雇うことにし、餡作りを任せることにした。 すると、どら焼きの餡が美味しくなったと評判を呼び、開店前から客が行列をつくるほどになったのである。 だがそれも長くは続かない。 店のオーナー夫人が徳江のうわさを聞きつけ、千太郎に徳江を辞めさせるよう言いに来たのである。 なんと徳江は、元ハンセン氏病患者で、今も隔離施設に入居しているのだという。 今も昔も差別というものは根強くあって、それをいけないことだとは知りながらも、人は目を背けて生きている。 この作品は決して差別を激しく糾弾するものとは違う。 45年も前に公開された松本清張の『砂の器』も、たしかハンセン氏病を扱った作品だったが、あれは完全に差別への批判だった。 科学的根拠のない言われに対するいたずらな恐怖心や差別意識を徹底的に批判するものだった。 その点、『あん』は生きる喜びに目を向けた内容となっている。 桜を愛でる喜び、どら焼き作りに精を出す喜び。 生きることはそれだけで素晴らしいのだと表現する。 どら焼き屋の店長に扮するのは永瀬正敏である。 孤独で不器用に生きる千太郎をそつなく演じている。 元ハンセン氏病患者で徳江に扮するのは樹木希林。 浮き世離れした雰囲気と、人懐こさを見事に演じ切っていた。 さすがさすがの演技にだれも文句はつけられまい。 貧困家庭に育つ女子中学生ワカナ役には、樹木希林の孫である内田伽羅が扮している。 撮影現場では身内でありながら、あえてお互いに距離を取って臨んだらしい。(ウィキペディア参照) 『あん』には、視聴者を泣かせようとして演出されたシーンはないのに、私は号泣した。 私はこの俗世間に生きる喜びを見出したいと思った。 あまりにも多くを望み過ぎていて、ささいなことに幸せを感じる瞬間を忘れていた自分に気付かされる。 静謐で上品な日本映画に、心から拍手を送りたい。 2015年公開 【監督】河瀬直美 【出演】樹木希林、永瀬正敏、内田伽羅

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