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カテゴリ:サンレモの歌手たち
★イヴァ・ザニッキ (vf) Iva Zanicchi 1940年1月18日リゴンキオ(Ligonchio)生、歌手、テレビ司会者、女優。
ミーナを「クレモナの虎」("Tigre di Cremona")、ミルバを「ゴーロの豹」("Pantera di Goro")と言われているのはご存じだと思いますが、日本では一般的になっていませんがイヴァ・ザニッキは「リゴンキョの鷲」('"Aquila di Ligonchio")と言われています。
四人姉弟の次女で、声量と容姿に恵まれ将来歌手名になりたいと思っていました。 十代の頃、マイクボンジョルノが司会するTVクイズ番組「夕べの鐘楼(Campanile sera)」でのTV出演後、歌のレッスンとロマーニャ地方の民俗音楽のツアーをしています。公式デビューは、1960 年にシルヴィオ・ジーリが司会する地方対抗クイズTV番組「I due campanili」でボローニャ地区決勝進出したチームに参加して、シルヴィオ・ジーリ始め多くの人からお褒めの言葉を貰ったそうです。 1961年にレッジョ・エミリアの新聞社トロフェオ・ガゼッタコンテストが主催する新人コンテスト"Voci Nuove Disco d'Oro"に出場し、4月15日クラブ・タラントラでの最終予選でパオラ・ネーリに次いで2位になりました。ちなみにオリエッタ・ベルティ(Orietta Berti)が6位、ジャンニ・モランディ (Gianni Morandi)が9位でした。 62年カストロ・カーロ新人コンテストに応募し、ベルターニ(Bertani)から歌のレッスンを受けるためレッジョ・エミリアーナに引越しました。優勝間違いなしと言われていながら、悪性扁桃腺炎で断念、3位になったユージニア・フォリガッティがサンレモ音楽祭に出場しました。イヴァはその実力を認められユージニアと共にリフィ(RI FI)と契約しています。 63年5月デビュー・シングルに"ZERO IN AMORE (チンクェッティのとは別の曲)"とクラメールが作・編曲した"Come un tramonto"を発表しました。翌月6月には"Tu dirai"と"6 ore"の シングル盤も発売しました。 最初の賞はすぐに来ていますスイス・カンツォーネ音楽祭で"Il brano Quando"を歌い、最高得点を取りました。またカストロカーロの事に感動した実業家がアメリカのカーネギー・ホ-ルで歌う機会を提供し、新人ながらアメリカのイタリア移民に大きな感度を与え、彼女はジャズ、ブルース、ソウルの心をイタリア土産としました。 64年、最初のヒット曲を記録します。"あなたが欲しい(COME TI VORREI)"という曲で、62年アメリカのソロモン・バーク(Solomon Burke)が歌った"クライ・トゥ・ミー(Cry to Me)"のイタリア語カヴァーで年間ランク39位(週間ランク16週在位、8位)となり40万枚売れました。彼女がミラノの駅に降り立った時、スーツケースを運ぶポーターがこの曲を口ずさんでいるのを聞き、本当にヒットしている事を実感したそうです。 この大ヒットのお陰で、2年遅れのサンレモ音楽祭デビューしましたが"恋に時を忘れて(あなたの最も美しい年)"、夏のディスクの"わたしだけを愛して"共に入賞できませんでした。神様は彼女が歌手人生を急いで通り抜けてしまう事を望まなかったようす。
イヴァ・ザニッキの国内盤 SFON- 7051 (1965年5月 FONTANA - 日本ビクター) 30cm LP '65サンレモ・フェスティバル (FESTIVAL SAN REMO 1965)
SFON- 7051 FON- 1051
FON- 1051 (1966年1月 FONTANA - 日本ビクター) わたしだけを愛して [日]/[伊] (ACCAREZZAMI AMORE [J]/[I])
この続き(イヴァ・ザニッキ2)は66年サンレモ音楽祭の後になります
★ジョルダーノ・コロンボ (vm) Giordano Colombo 1943年6月18日ミラノ生、歌手。
1960年以降いくつかのコンテストに参加し、61年ジャン・ピエロ・レヴェルヴェリ(Gian Piero Reverberi)に認められ、カストロカーロ新人コンテストに出場させるためジャン・ピエロが彼のプロデューサとなりました。 62年カルロ・アルベルト・ロッシのCARジューク・ボックスと契約し、シングル盤デビューをします。64年、第12回ナポリ音楽祭にジェノヴァの女性歌手マルゲリータ(MARGHERITA)とパートナを組んで"コンメ(COMME)"を歌い、見事に入賞しました。65年先生ジャン・ピエロの兄ジャン・フランコ・レヴェルヴェリ(Gian Franco Reverberi)の曲で唯一度のサンレモ音楽祭に出場しました。 その後、ビート・グループのレッド・デヴィルス(The Red Devils)とライヴ活動をしますが、その10年の歌手生活から引退しました。 所属レコード会社は64~66年CAR Juke-Box
ジョルダーノ・コロンボ の国内盤 MH- 195 (1965年5月 SEVEN SEAS - キング) 30cm LP 一緒にカンツォーネを歌おう第3集 (LE PIU' BELLA CANZONI Vol.3)
MH- 195 SH- 292
SH- 292 (1967年4月10日 SEVEN SEAS - キング) 30cm LP カンツォーネ専科第5集 (LE CANZONI D'ORA Vol.5)
★ダニエル・ジェラール (vm=f) Daniel Gerard 本名ジェラール・ダニエル・ケーラキアン(Gérard Daniel Kherlakian)、1939年3月7日パリ生、フランスの自作自演歌手、ギタリスト。
父はアルメニア人、母は西インド諸島生まれのコルシカ人でブラジル幼年期を過ごしました。1953年フランスに帰国しノートルダムの少年聖歌隊で歌を始めました。その後ロック・バンド、デンジャーズ(The Dangers)を作り、58年初レコーディング"Viens"と"D'où reviens-tu Billy Boy"、アメリカのカレン・トゥインズ(Kalin Twins')がヒットさせた"ウェン(WHEN)"とドリシー・コリンズ(Dorothy Collins)の"ビリー・ボーイ(WHERE HAVE YOU BEEN BILIE BOY)"のフランス語カヴァーでした。 ライバルはリシャール・アントニー(Richard Anthony)達でした。ジョニー・アリディ(Johnny Hallyday)はまだデビューしていません。そ59~61年の兵役後サッシャ・ディステル(Sacha Distel)達が持ち込んだフォーク・ソングに転換していきます。 65年サンレモ音楽祭に出場し、ポップ・シンガーとして69年"バタフライ(BUTTERFLY)"がフランスで1位となり、翌年世界ヒット、日本でも名前が知られるようになりました。
ダニエル・ジェラールの国内盤(イタリア関係はありません) DP-1800 (1971年6月21日 POLYDOR - 日本グラモフォン) バタフライ (BUTTERFLY)/熊のお人形 (LE PETIT OURS EN PLUCHE)
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Last updated
2013.07.30 09:29:11
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