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カテゴリ:サンレモ音楽祭
第30回は非常に新人歌手が多く出場した年でした。30歌手の内複数回の出場となるのが5歌手、外人歌手が4(いずれも初出場)歌手とのこりが初出場のイタリア人歌手21としたいところっですが、そう簡単な話になりません。アルド・ドナッティとアルベルト・ケリが78年スコラ・カントルム(Schola Cantorum)のメンバーとして78年サンレモの舞台に立っていますし、リンダ・リーはダニエル・センタクルス・アンサンブル(Daniel Sentacruz Ensemble)の女性ヴォーカルとして76年、78年に出場しています。
さらに優勝歌手トト・クトゥーニョは77年と78年アルバトロス(Albatros)に出て、アルバトロス解散後ソロ歌手として80年に優勝した経過です。バンドやグループのメンバーがソロ歌手として、また違うバンドのメンバーとなって出場することが頻繁に起きてきます。また出場経験歌手歌手が全てビッグ扱いになるかと言うと76年に出場したアルモニュウムのようにカテゴリーAになったバンドもあります。
第30回 1980年2月7日(木)~9日(土) サンレモ市アリストン劇場(Teatro Ariston di Sanremo) 司会:クラウディオ・チェッキート(Claudio Cecchetto)、ロベルト・ベニーニ(Roberto Benigni)、オリンピア・カリージ(Olimpia Carlisi) オーガナイザー:プブリスペイ(Publispei) 社[オーナーはジャンニ・ラヴェーラ(Gianni Ravera)] 芸術監督:ジャンニ・ラヴェーラ(Gianni Ravera) 芸術助監督:ジャンニ・ナーソ(Gianni Naso)
[数]は外人歌手数、1980年の外人の出場は3歌手 ・Dischi Ricordi 8[1] (Ariston 1[0], Carosello 1[0], Cinevox 2[0], SIF 1[0], Lupus 1[0], Yep 1[0], Bronze 1[1]) ・CGD 6 [1] (CGD 1[0];Derby 1[1]), Baby 2[0], Splash 1[0], Ciao 1[0]) ・RCA Italiana 5[0] (RCA 3[0], Una 1[0], Spaghetti 1[0])) ・EMI Italiana 4[1] ・Polygram Dischi 4[1] (Polydor 21[0]);Philips 2[1])) ・Fonit Cetra 1[0] ・Ri Fi 1[0] ・CBS Dischi1[0] (CBS 1[0])
オ-ランド・ジョンソン (EMI) オムレット (Polydor)
<参加曲> ◆Amor Mio... Sono Me (Pino Scarpettini - Angelo Piccareta) 出版社 Intersong Italiana - Clou. <A>オムレット (compl) Omelet (Polydor – Polygram Dischi) 2060-217 [45]
2060-217 SC-1143
◆Angelo Di Seta (Remy Guidè - Claudio Colitti) 出版社 Grandi Firme Della Canzone <A> リンメル (compl) Rimmel (Cinevox - Dischi Ricordi) SC-1143 [45]
◆Dal Metrò A New York (Sandro Giacobbe) 出版社Sugar <A> ヘンリー・フライス (vm=sz) Henry Freis (Derby– CGD) DBR-10253 [45]
DBR-10253 SIF-25008
◆Dammi Le Mani (Franco Chiaravalle) 出版社SIF <A> メラ・ロ・チチェロ (vf) Mela Lo Cicero (SIF – Dischi Ricordi) SIF-25008 [45]
◆...E Pensare Che Una Volta(Sandro Spasiano - Paolo Cassella) 出版社 RCA – Jeans <A> ジャンフランコ・デ・アンジェリス (vm) Gianfranco De Angelis (RCA – RCA Italiana) PB-6417 [45]
PB-6417 ZBU- 7181
◆Non Ti Drogare (Alberto Beltrami) 出版社 IT - RCA <A> アルベルト・ベルトラミ (vm) Alberto Beltrami (UNA – RCA Italiana) ZBU- 7181 [45]
◆Ritagli Di Luce(Luigi Albertelli - Luciano Poltini) 出版社 Belriver <A> ラッテ・エ・ミエーレ (compl) Latte e Miele (EMI – EMI Italiana) 3C・006-18470 [45]
3C・006-18470 BR-50210
◆Ti Desidero (Clauddio Scotti Galletta - Paolo Barabani - Franco Zulian) 出版社SIAE <A> アルモニュウム (compl) Armonium (Baby – CGD) BR-50210 [45]
◆Tu Che Fai La Moglie (Luca Cola - Enrico Intra - Marinco Rigaldi) 出版社 SIAE <A> ルカ・コ-ラ (vm) Luca Cola (Ri Fi – Ri Fi) RFN・NP-16800 [45]
RFN・NP-16800 8278(CBS)
◆(Adelio Coscarella - Aldo .Cogliati - Diego) 出版社 - <A> コスカレッラ と ポリメノ (duo) Coscarella & Polimeno (CBS – CBS Dischi) 8278(CBS) [45]
参加曲を含む出場曲は以上です
日本のプロ・グレ・ファンならボッテガ・デッラルテやラッテ・エ・ミエーレの出場が興味を引くところでしょうが、当時イタリアでは第30回の注目はジャンニ・モランディの出場とその成績だけと言っても過言ではありませんでした。表彰上位3位までに入らず惜しい4位だったのですが、驚きは80年年間ヒット・ランク100位以内に歌った“マリウ”が入らなかったことでした。
音楽祭後のヒットの状況はトト・クトゥーニョの優勝曲“ソロ・ノイ”が80年年間ヒット・ランク18位で順当なところ、第2位エンツォ・マレパッソの“君は元気かい”は同72位、第3位プーポ“恋人たち”が同19位で大成功、注目はエンリコ・ルッジェリ(Enrico Ruggeri)のパンク・バンド、デチベルが同56位で関心を引きました。意外だったのが入賞どん尻20位のペピーノ・ディ・カプリの“君が”が同98位ながらランク・インした事でしょう。
もう一人復帰組で注目されていたのがボビー・ソロ(Bobby Solo)でした。サンレモ音楽祭の成績は入賞(実質10位)でジャンニ・モランディの実質4位には負けていましたが、その後のレコードセールスではモランディが週間ランキングにも入らなかったのですが、ボビー・ソロ8年ぶりのサンレモ音楽祭入賞曲”ジェロシア”は週間ランキング最高位8位(在位18週)の成績を残し『小吉』程度の成功でした。
80年初出場レコード会社の残る紹介はLupusだけですが、外国レーベルのブロンズも簡単に触れておきます。
ルーパス (La Lupus) 正式社名は定冠詞ラ(La)が付くようです。ラテン語でオオカミの意味。作詞家で88年、94年には自分自身がサンレモ音楽祭で歌った歌手のフランコ・カリファーノ(Franco Califano)とディスキ・リコルディのメンバーが1979年ローマで設立したレコード会社です。
作詞家としては特定な作曲家チームを組まず、多くの作曲家と仕事をしており、ルーパスでアルバムを出している作詞・作曲家で歌手もしていたピッポ・フランコと多く仕事をしていません。 ルーパス在籍歌手はステファーノ・ロッソ、ドナテラ・レットーレ(Donatella Rettore)、ジョー・キャレッロ(Jo Chiarello)、ガブリエラ・フェッリ(Gabriella Ferri)、バンドのコラージェ(I Collage)、ディク・ディク(Dik Dik)がいました。 レコード制作は90年頃までしていたようですが、88年にフランコ・カリファーノがサンレモ音楽祭に出場した曲はルーパスからではなく、リコルディから出ています。
イギリスのレコード会社ですが、サンレモ音楽祭では新レーベルなので簡単に紹介しておきます。 ブロンズ (Bronze Records) イギリスのロック・バンド、ユーラリア・ヒープ(Uriah Heep)がヴァルティゴ(Vertigo Records)でレコードを作っていた頃のプロデューサーだったジェリー・ブロン(Gerry Bron)が彼らのために作った独立系レコード会社です。
製造とディストリビューションはアイランド・レコードに委託(日本の国内盤は日本コロムビアから)でした。77年にEMIへ、80年にはポリドールに移動しています。86年財政難に陥りレイ・チャールズのレガシー・レコード(Legacy Records)に売却されました。
アルド・ドナーティ (RCA) フランチェスコ・マーニ (Ariston) ルカ・コ-ラ (Ri Fi)
音楽祭の中継はラジオが3日間通してされましたが、TVは第1夜、第2夜は23時から25分のダイジェスト版の放送のみで、最終夜の模様はユーロヴィジョンの国際中継があるため完全中継がされました。
第30回の司会は予選の2日間クラウディオ・チェッキート(Claudio Cecchetto)、オリンピア・カリージ(Olimpia Carlisi)が進行し、フィナーレの最終日をロベルト・ベニーニ(Roberto Benigni)、オリンピア・カリージがするという変則的なスタイルでした。
ロベルト・ベニーニと言えば98年日本でもヒットした自ら監督、主演しアカデミー主演男優賞、アカデミー外国語映画賞、カンヌ国際映画祭 審査員特別グランプリなど世界各国の映画賞受賞作「ライフ・イズ・ビューティフル」を思い浮かべますが、このサンレモを司会した頃は27才の暴走型人気コメディアンで、音楽祭の中継が始まるやオリンピア・カリージに30秒間のロング・キッスをしたり、ローマ教皇や政治家いじる危険なジョークを飛ばし、登場する毎に服を脱ぎ、舞台で好き放題暴れまくりました。 ベニーニ自身が『音楽祭を救うための唯一の解決策は、決勝の前に私を解雇することです』と言うぐらいでした。 日本でいえば北野武がビートたけしの名前で人気を博し、毒づいていたのを思い出していただければご理解してもらえるでしょう。
こうして毎年サンレモ音楽祭後、今年の真の成功者が語られるのですが、80年は歌手でなく、司会をしたコメディアンのロベルト・ベニーニに定まったようです。
サンレモ音楽祭 (FESTVAL DI SANREMO)1979年は以上で、次回から参加歌手の紹介が続きます
・優勝・入賞曲と参加曲を含め全体を言う場合、出場曲と表現します。 ・順位をつけない入賞曲の頭には"◇"を、参加曲の頭には"◆"を付けます。 ・太字は国内盤で出ていた曲と歌手。 ・サンプル音声ファイルは著作権侵害を避け、音声映像は貼り付けておりません。全曲聞きたい方はYou-Tubeを探してください。見つかることもあります。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2020.11.18 10:29:33
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