「私は正しい」の罠にひっかかってました
今日はちょっとスピ系のお話です。 おとといのブログ、読み返すとエゴが炸裂してますね。 「私は正しい」と言っている。 これを書いている現段階でも、そんな風に思いたがっているので、 このような精神状態でまだブログを書くべきではないのかもしれませんが、 最近は大きな感情に巻き込まれるということもなくなり、 平穏に過ごせているし、ちょっとは成長したのかなと慢心していたので、 こんな些細なことで怒りが込み上げてきて、友人にメールしてしまったという 自分自身に愕然とし、失望しています。 普段あまり人と関わらないし、 大自然の中でリフレッシュされることが多かったから 何事もなく過ごせていただけで、 私はまだまだ浄化されていない諸々を抱えていて、 何かの拍子に、風船を針でつついたように、 一気にカルマが浮上して爆発してしまう可能性が依然としてあったのだな、 と実感しました。 一般的に見て、私の主張が正しいかどうかは 賛否両論あると思いますが、 私がやっていることは、最近よくネット上で見かける 正義漢ぶった人間そのもの。 ネット上ではあからさまな誹謗中傷も相変わらず見かけますが、 かなりの頻度で見られるのは、 正論を盾に人を批判する人々です。 たとえば喫煙者に対して、「周りの環境に配慮もできないのか」 芸能人のデキ婚に対して、「仕事の関係者に迷惑をかけて、社会人失格」 「本能のままに流されてだらしない」 etc. ご説ごもっとも、なんだけど、何かかすかな違和感を感じる数々の 正義感あふれる、常識派のみなさまの主張。 正論を盾に「自分は正しい」と思うことで自分を守っているような、 強い防衛本能に裏付けられているというのか、 裏返せばそうしないと、デキ婚する人などに対して自分が 保てないような、無価値感が刺激されるのか。 でも、そういう自分の心の反応を精査しないでいる、 だって私の言っていることは正論で、常識なんだから。。。 と、そこで思考停止している。 ・・・と、これでは、悪意をもって誹謗中傷する人の方が、 自分の中の悪意に気づいている分、ある意味でまだマシなのではないか? と思ってしまう。 「自分は正しい」と思い込んでしまうと、それ以上深い部分にある 自分の醜さとか傷に気づかないままで(というより見ないとしないままで)、 自分の人生がうまくいかない、 それをよくしていきたいと思っていても、 解決の糸口がつかめないまま、あたら年月を過ごしてしまいかねません。 まあ私自身も、決して「平穏に」過ごしていたのではなく、 そうしたある種の防衛本能も働かせながら、 自分の成長・人生を「停滞」させていただけなのでしょう。 人様のことは落ち着いて観察していられても、 自分のこととなると客観的になれないし、 自分の中にある醜さを見たくないと思ってしまう。 そんなとき「自分は正しい」というのは とても便利な自己正当化のアイテムです。 ここを抜けるには、やはり瞑想の先生にお会いするしかないのかな。 毎朝瞑想する習慣がありますが、最近は瞑想中にいつも思考がぐるぐるして、 深い瞑想に入れなかったので、 そんな状態でありながら 「自分は普段感情に振り回されなくなったから成長したのだ」と思いたがっていたのも、 停滞している一つのサインだったようです。 私の先生はインドのグルについて何年、何十年も修行されてきて 何度も深い見性(悟り)体験はあったといわれますが、 (断っておきますが、新興宗教などではありません。 教えのベースは小乗仏教にあり、瞑想を通した自己修養、 精神修養、覚醒した生き方を指導されています。 また、オーラソーマの一部関係者に帰依者が見られるオショー系でも ありません) それでもまだ謙虚に、情熱をもって世界各地で修行を深めておられます。 人を指導する立場の先生がそうなのに、 私がおごっている場合ではないのです。 この道は果てしないと、そう思います。 各種セラピーやスピリチュアルのティーチャーと呼ばれる人たちにも 師事してきましたが、 ティーチャーともなった人は、ものすごくパワフルで社会的成功も おさめ、魅力的な人々が多いですが、 同時に「私はすごい」というエゴが強い方も多数でした。 そのセラピーなどの知識やスキルは卓越していて努力も 怠らないので尊敬に値するのですが、 一口に「スピリチュアル」系と言っても、 自分のエゴの構造をあぶりだす方向には関心を持つ人はいなくて、 「自分を高める」ということを、一般的な意味での人格陶冶と、 より高度なスキルを身に着け経験を積むことだと 解釈されている気配がして、 (あるいは、超能力的能力、霊能力が自分に備わっていると言い、 人を従えようとする人もいました) 行き詰まりを感じていたところ、 瞑想の先生にお会いして、潜在的に求めていた道を示されたという 経緯がありました。 今一度、初心に戻って自分の心を精査して、 人の批判でおわるんじゃなくて、 人を批判してしまう、その動機が自分の中のどこにあるのか? をちゃんと見ていこう、とそう思います。