ぼろは着てても
民主党の目玉政策のひとつ、「子ども手当」は 子どもを持つ親たちにも評判は必ずしもよくないですね。 成人していない子どもを持つ世帯であれば優遇されて、 子どもがいない人は結果的に負担が増える?らしく、 なんだか「小さい子どもがいて申し訳ないわね」くらいに 思ってしまう・・・。 子どもが欲しくてもできない人たちにとっては 国からも圧迫されているかのように感じられるのではないでしょうか? 現行の制度は年収制限があるけれど、 それもなく、高収入の世帯にも一律にお金が支給されるのも おかしな話ですね。 もっとも、本当に支給されれば助かる人も大勢いるのだから、 そこはもっとメリハリつけて良いのではないかと思う。 さて、どんな風に施行されるのでしょうか・・・?? さて、我が家は夫が若くない(という言い方にしておく)ので、 それなりに年収もあり、所得制限にひっかかってしまったので 現在の制度の児童手当はもらっていませんでした。 そう、それで思い出したのは、 生まれてまもない子どもをつれて、 市役所を訪れた時のこと。 「児童手当の申請の方はもうお済みですか?」ときかれ、 確か、夫の源泉徴収を見た限りでは、所得制限にひっかかっていたので、 申請をしていません、と返答したところ、 その市役所員は、じろじろと私を見て、 世にもけげんな顔をするのです。 その顔には、「どう見てもこの人、そんなに世帯収入がある家庭に 見えないけどな・・・」とはっきりと書いてありました。 そして、「万一申請もれがあったらいけないので、一応手続きの書類を 渡しておきますね!」と、 なかば強引に書類を手渡され、一通りの書き方の説明を受けることに・・・。 私も、そこで強硬に 「いいえ、私のだんなはこう見えても稼いでいますのよっ!」と 言い張るのもかっこ悪い感じがして、 (元来気弱なので、そこで源泉徴収を見間違っていただけだったら 恥ずかしいな~という思いが頭をかすめたのです) とりあえず書類を受け取り、帰途につきました。 でもこの手当、 「世帯主名義」の口座にしか振込先に指定できないように なっていて (←子どもに入用なものを購入するのは主に母親だと思うし 母親名義の口座に生活費をいれてもらっている人もいるのだし、 そこはもっとフレキシブルであってほしかった)、 夫が口座番号等を用紙に記入するまで当分放っておいたら、 ご丁寧に役所から催促の電話まできました 貧乏なくせに無理するなよ~、と思われたのでしょうか?? (←被害妄想の気あり) まあ、結果やはり児童手当は支給されないという封書が届いて、 なんだよ~、とため息がでたのですが、 なにが言いたかったかというと、 人間やはり、見かけで判断されがちだなあということでした。 子育て中なんだから、気取った格好なんてできないよ!といいたいところですが、 中には授乳している小さな赤ちゃんがいても、 ぱりっとした身奇麗な格好をしているお母さんが大勢いらっしゃいますもんね。 でも、でも、身綺麗にしている=お金がある という図式はあまりにも短絡的ではないか!!?? 何かで読んだのですが、 東京の社長さんは、たとえぎりぎりでもベンツを買える年収があれば ベンツを買ってしまうけど、 京都の老舗の何代目かは、たとえベンツが買えても2、3ランク下の 車を買うそうです。 だから、目一杯の見栄を切ってベンツを買う東京の社長は、 会社が危うくなったらすぐにポシャってしまうんだけど、 京都の老舗では、そんな風に見栄をきらず余裕を残しているので 家の(会社の)のれんを代々保っていけることが多い・・・とか。 真偽のほどはわかりませんし、東京にしろ、京都にしろ、 いろんな社長さんがいらっしゃるだろうから一概には言えないんだけど、 おもしろい話だと思いました。 ・・・・もちろん私がぼろは着てても本当は大金持ちなんて いうことでは決してないですよ。 そんなの今までの私のブログを読んでいる方には 言われなくても分かってるわい!! とつっこまれそうですが 着飾っていればお金持ち、お金持ちに見えるように着飾るという 「見栄」の文化が東京一円では強いのかな?? 森茉莉のエッセイ「ほんものの贅沢」の中でも、 「商人やボオイ、番頭たちの中に、金があっても構わない、本ものの贅沢族か、 むやみに着飾る贋もの族かを見分ける目利きがいなくなっているらしいので、 贋もの族はいよいよキンキラに飾りたてるのかもしれない。」 という一節があるのをおもいだしました。 ちなみにこのエッセイは秀逸で、森茉莉のエッセイの中でも 最高傑作のひとつだと思います。 イギリスの紳士だって、一部の隙もなくぱりっとした格好をすると、 「おいおい、それでは紳士には見えない」ととがめられたという逸話があったように、 どこかに余裕を残す、目一杯の見栄をはらないことが 大人の粋であり、「ほんもの」の人のもつ特性であった 時代があり、それが代々受け継がれている所もあるのでしょうね。 私も、ぼろは着てても実は「本ものの贅沢族」・・・とはいかないまでも、 「心は錦」でありたいものと日々思っている所存であります。