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コンドルの系譜 ~インカの魂の物語~

第四話 皇帝光臨(3)

銀河の下で

【 第四話 皇帝光臨(3) 】

ところで、キスピカンチ郡は隣接郡といえども、アンデスの山々を越えながらの進軍は、そう容易なものではない。

その日の晩は野営をし、翌朝のキキハナ到着を目指すことになっていた。

南半球の11月は晩春とはいえ、アンデス高地の夜の冷え込みは厳しい。

この季節、この地では、まだ時に雪に見舞われることさえあるのだ。

インカ軍幹部たちにとって、兵に加わった人々が慣れない環境の中でも安全に休息が取れるよう、寝所の確保や食糧面の補給など、手配しなければならぬことは多かった。

トゥパク・アマルの指示のもと、各連隊の長たちは、兵たちの野営が滞りなく進むよう手配に忙しく動いていた。

特に、戦など無縁だった義勇兵たちへの目配りは、細やかになされなければならない。

経験が無いのはアンドレスも同様で、ビルカパサが細かな点まで丁寧に彼に助言を行っていた。

今やアンドレスも一人の長として、配下の兵を――哨戒に立つ者、天幕を張る者、炊き出しをする者などを――適切な指示によって統率し、迅速に動かしていかねばならぬ立場である。

野営場の星

そんな彼の仕事が一段落する頃には、月もすっかり高くなっている。

「ふう…。」と、白く光る月を見上げながら小さく一息ついたアンドレスの傍で、ビルカパサがあたたかい眼差しを送っていた。

「アンドレス様、すぐに慣れますよ。」

ビルカパサの言葉にアンドレスは笑顔で頷き、丁寧に礼を述べる。

「ビルカパサ殿とて、ご自分の隊のことがあおりなのに、すっかり世話になってしまった。

かたじけなく思います。」

そんなアンドレスに、ビルカパサは恭しく礼を払う。

「当然のことです。

それに、私のところには、手助けをしてくれる者もありますので。」

そう言って僅かに肩をすくめてから、少し向こうに陣を張っている自分の連隊の方にちらりと視線を投げた。

連られるように、アンドレスもそちらの方に目を向ける。

二人の視線の先に、テキパキと兵たちに指示を出しながら闊達に活動している一人の女性の姿がある。

「出すぎたところも多いのですが、意外とよく働いてくれています。」と、ビルカパサは再び軽く肩をすくめ、笑顔をつくった。

アンドレスはその女性が、にわかには誰かとわからず、しかし、確かに見覚えがあるような気がして、じっと見た。

ビルカパサは、そんなアンドレスの様子に少々苦笑しながら、説明する。

「昔からお転婆で困っていた、私の姪っ子です。

あのマルセラですよ。」

アンドレスも、はたと合点のいった表情になる。

そして、やや驚いたふうに、ビルカパサとマルセラを見比べるように交互に見渡した。

確かに、言われてみれば、その女性はマルセラに違いなかった。

男勝りで少年のような風貌だったあのマルセラが、3年程会わぬ間に、すっかり美しく大人びているその姿には、さすがのアンドレスも目を疑った。

そんな彼の視線に気付いたのか、ふとマルセラがこちらを振り返る。

アンドレスが自分の方を見ていることに気付いたマルセラは、パッと頬を紅潮させた。

が、もちろん、遠目からなので、そんな彼女の様子にアンドレスは気付くことはなかったが。

アンドレスは、思わず懐かしさからマルセラに笑顔で右手を挙げて、挨拶の合図を送った。

マルセラは完全に仕事の手が止まったまま、彼の姿に釘付けられたように見入っていたが、やがて意を決したようにこちらの方に歩み来る。

アンドレスも、懐かしさをかくせぬ眼差しで、近づいてくるマルセラの方にまっすぐ向き直った。

「アンドレス様、お久しぶりです。」

高揚感を滲ませた声で、瞳を輝かせながらマルセラが言う。

アンドレスも深い懐かしさと、見違えるように成長したマルセラを前にした驚きから、瞳を輝かせた。

「マルセラ、すっかり見違えたよ。」

アンドレスは、率直な気持ちを笑顔で伝える。

マルセラはと言えば、やはり見違えるほどの逞しい若者に成長したアンドレスを間近にして、言葉を失ったように立ち尽くす。

自分の心臓の鼓動がアンドレスに聞こえるのではないかと思うほどで、彼女は慌てて何か話題を探した。

予感の月

そして、「そういえば!」と、はたと思いついたように声を上げる。

「アンドレス様、コイユールが義勇兵に加わっていますよ!」

アンドレスとコイユールが幼馴染みの関係にあることを知っていたので、マルセラはアンドレスとの共通の話題を思い出した安堵感から、ほっと心の中で息をついた。

が、その瞬間、アンドレスが何かに打たれたように固まったように見えたのを、しかし、マルセラは何か目の錯覚かと思って、数回、瞬(まばた)きをした。

そして、改めて、アンドレスを見る。

一方、そのアンドレスは、真剣な眼差しに変わってマルセラを正面から見据えた。

「コイユールが?

来てるって!?」

彼なりに感情を抑えているのだろうが、その声には歓喜の色がはっきりと見て取れた。

マルセラは予想を超えたアンドレスの反応に、説明しがたい複雑な心境を抱きながらも、「はい。叔父様の連隊に入っています。」と、ありのままを伝える。

「そうだったのか。」と恍惚とした表情で、アンドレスは改めてマルセラを見ると、「ありがとう!」と妙に力のこもった礼を述べた。

「いえ…。」と、やや気圧された感のマルセラの少し背後では、遠目から二人のやりとりを見ていたビルカパサが、明らかに様子の変わったアンドレスに、表面からは決してその裏側が読み取れぬあの感情の統制された視線をじっと投げていた。



一方、コイユールたち義勇兵は、今後の戦闘に向けてインカ軍の専門兵から訓練を受けていた。

コイユールは生まれてはじめて棍棒なるものを手にして、おぼつかぬその手つきで悪戦苦闘している。

そんな彼女の隣で、持参した斧の振り方を練習していた黒人青年ジェロニモが、心配そうな面持ちでコイユールを見やった。

華奢なコイユールには、棍棒を持ち上げていることすら、ひどく難儀に見える。

振ろうとしようものなら、はっきり言って、彼女の方が明らかに棍棒に振り回されていると言った方が正解だった。

最初は、インカ軍の指導の呑みこみがはやいジェロニモが、コイユールに二次的に教えていたけれど、さすがに気のいい彼にも、どうもそうした次元ではないと思えてくる。

「ねえ、コイユール。無理しないで、もっと別の方法で手伝えばいいんじゃないかな。」と、いたわるように声をかける。

コイユールは額にいっぱいの汗を浮かべながら、小さく溜息をつく。

そして、既に疲労からなのか何なのか、ぼんやりとした視線で、ジェロニモの方を見上げた。

「ううん。

できるようになりたいの。」

「それなら、別に、止めないけどサ。

ただ、はじめっから、あんまり無理しない方がいいって思うよ。

何せ、先は長いンだから。」

「あ…そうよね。」

まだ肩で激しく息をしながら、コイユールは頷き、意識して明るい笑顔を返した。

が、心の中では、何かに惑う己の気配に怯んでいた。

改めて、己の手の中にある鈍器の感触を確かめる。

(これで、人を打つ…叩く…殺すのね。)

それから、再び、周囲で訓練に励む義勇兵たちの姿を見渡す。

一縷の迷いも無いように、決然とした表情で棍棒を振り切るジェロニモ、そして、その他の兵たちの姿が彼女の瞳の中に、はっきりと映る。

そんな彼らの姿を見つめる彼女の心は、さらに落ち着かなくなっていく。

次の瞬間、何か、自分の足が地から浮き上がっているような不穏な感覚に襲われ、コイユールは、慌てて足の裏に力を入れた。

敢えて力を込めて、大地を踏みしめてみる。

そして、何かを振っ切るようにして、きっ、鋭く前方を見据えた。

それから、意を決したように、恐らく、外見的には滑稽なほどに不釣合いなその厳(いか)つい武器との格闘を再開した。



そんな義勇兵たちのまだ危なっかしい訓練風景を、遥かに高台の上からアンドレスは息詰めて見下ろしていた。

晩春の空は霞みがかってはいたが、それでも美しい月に照らされて、眼下の様子は夜でも良く見渡せた。

穏やかな涼風が吹き、夜露に濡れた瑞々しい若草の香りが漂っている。

アンドレスの目は、真っ直ぐビルカパサの連隊の方に向けられていた。

意識せずとも、コイユールの姿を探してしまう。

そして、今や、彼は、しっかりとその懐かしい姿を見つけ出していた。

月の中で

月明かりの下、遠目から見るコイユールのその姿は、女性らしさを増したとはいえ、髪型も服装も雰囲気も、その印象はあまり以前と変わらない。

3年ぶりに見るその姿に、アンドレスの胸は熱くなった。

(コイユールは、昔から、あまり変わらないな。)

アンドレスは目を細めながら、心の中でそっと呟き、そして、静かに微笑んだ。

深い懐かしさのためだろうか、何故か、心がすっと和んでいく。

この数日、いや数年の間に起こり続けてきた様々な緊迫した出来事の数々が、まるで夢のようにさえ思えてくる。

そんな彼の視界の中で、自分の手にした武器に弄ばれるようにして地面に転ぶコイユールの姿が映る。

アンドレスは、眉を顰(ひそ)めた。

(まさか、戦線に出るつもりではないだろうな…。)



「アンドレス様。

トゥパク・アマル様がお呼びです。」

不意に鋭い声で背後から呼びかけられ、一瞬、アンドレスは身を縮めた。

振り返ると、ビルカパサがやや厳しい眼差しでこちらを見ている。

アンドレスは、瞬時に現実に引き戻された。

そして、自分の反応に己の隙の大きさを見て取ると、決まり悪さからビルカパサを直視できぬまま、「わかりました。」と、急ぎ足で立ち去った。



野営場の中央にあるトゥパク・アマルの天幕は、松明の中に白く浮かび上がり、その周りを険しい面持ちをした厳(いかめ)しい警護の兵たちが、幾人も眼を光らせている。

既に戦場のごとく、ものものしい緊迫した雰囲気である。

蒼い道標

アンドレスは、己の心の統制を再び取り戻そうと、天幕の入り口そばの松明の元で足を止め、じっと眼前の炎を見つめた。

赤々と燃える炎は、時折、軋むような音と共に、火の粉を散らしながら天頂高く燃え上がり、そして、また静まる。

まるで生き物のようなその炎を見つめながら、己の心を現在の状況に相応しいものへと統制していく。

アンドレスは、固く瞼を閉じた。

松明の炎から、熱風が流れ来る。

そうだ、いよいよ戦闘がはじまろうとしているのだ。

己の全てをそのことに集中しなければならない。

非常に重要な局面にきているのだ。

どのような些細な失敗も許されない。

目的のためだけに、集中しなければならない。

彼は再び目を開き、もう一度、松明の炎を己の瞳に映した。

その瞳の中の炎は、彼の心の中の蒼い炎に着火するかのごとく、強い閃光を放つ。

アンドレスは松明の前を離れ、武人としての表情でトゥパク・アマルの天幕の方に歩みはじめた。

そんな彼を護衛するようにして、さりげなく後を追ってきていたビルカパサが、天幕の入り口の垂れ幕を恭しい手つきで開き、アンドレスを中にいざなった。

アンドレスが天幕の中に入ると、中には、トゥパク・アマルとディエゴが濡れたような蝋燭の光を受けながら、彼の来訪を待っていた。

アンドレスは深く礼をして、天幕の内部に進み行く。

ビルカパサが垂れ幕を内側から下ろし、入り口のすぐ傍に警護するように立った。

トゥパク・アマルは優美な手つきでアンドレスを手招きすると、己の前に座らせた。

アンドレスの父親代わりにも等しい叔父のディエゴが、二人の傍で、やはり父親のごとくの眼差しで、無言のままアンドレスの方に視線を向けている。

アンドレスはトゥパク・アマルの前で、再び、深く頭を下げた。

トゥパク・アマルも穏やかな眼差しで、アンドレスに目で礼を送る。

metalic moon

眩(まばゆ)い蝋燭の光を切れ長の目の端に宿しながら、トゥパク・アマルがゆっくりと口を開く。

「アンドレス、いよいよ、この後、そなたも人の上に立つ者として振舞っていくことになる。

今は小規模な連隊なれど、いずれはさらに大きな部隊を率いていくことになるであろう。

それ故、そなたに将としての心得を、伝えておきたい。」

「はい!」

アンドレスが蒼く燃えるような、あの眼差しで、トゥパク・アマルを見上げた。

トゥパク・アマルもその瞳に、頷き返す。

「将に必要な心得は幾つかある。

例えば、そなたもよく知っているように、戦場で己の私情や感情を抑え、理性的に動ける能力などだ。」

トゥパク・アマルは静かに微笑み、それはアパサの元でも既によく学んできたことであろう、という目の色でアンドレスを見た。

アンドレスは頷いた。

しかし、頷く彼の心の奥底で、微かにざわめくものがある。

次第に夜も深まり、天幕の外では風が強まってきたようだ。

天幕の隙間から吹き抜ける風が、まるで小さく叫ぶかのような音を上げはじめる。

それと共に、蝋燭の炎も、風に煽られ、不安的に揺れだす。

その炎と呼応するかのように、天幕の中の四人の男たちの黒い影も大きく揺れはじめた。

トゥパク・アマルはアンドレスの方にやや前傾姿勢になると、己の顔にかかっていた艶やかな黒髪を、そのしなやかな褐色の指先で、優雅に、ゆっくり、掻きあげた。

そして、相変わらず静かな、しかし、決然とした光を湛えた眼差しで、貫くようにアンドレスの目を見つめる。

アンドレスは瞬間、光を直視したがごとくに激しい眩(まばゆ)さを覚え、反射的に目を瞬かせた。

そんなアンドレスに、上方から視線を注ぎ続けたまま、トゥパク・アマルは、妖艶にさえ見えるその美しい目をすっと細め、再び、ゆっくりと口を開く。

「そして、アパサ殿のもとで、このことも学んできたであろう。

将は、兵の士気を上げることができねばならぬ。」

トゥパク・アマルの深く静かな声に、アンドレスは眩さの残光を引き摺りながら、再び頷く。

そして、かつての恩師、アパサの言葉を思い出す。

『おまえの戦場での振る舞いの一つ一つが、いや、戦場だけでなく、人前に立ついかなる場面でも、インカ皇帝の血統として相応しくなければならぬのだ。

それが、おまえの宿命だ、アンドレス。

おまえは、周りの者の心を惹き付け、奮い立たせ、士気を高める、そのための偶像にならねばならぬのだ。』

アンドレスは、今、とても近くにいるインカ皇帝の末裔、否、彼にとっては皇帝そのものであるトゥパク・アマルを改めて見上げた。

眼前のその人は、全身から沸き立つような青白く輝くオーラを纏いながら、インカ皇帝の子孫たるゆるぎなき自覚と、自信と、そして、インカの民への深い慈愛とに貫かれた眼差しで、厳然と、今、ここに存在している。

(皇帝陛下…――!!)

アンドレスは、無意識に、深く身を屈めて礼を払わずにはいられない。

彼は、いつしか瞼を閉じ、じっとトゥパク・アマルの前に頭を下げた。

そして、閉じた瞼のままで、己の心に耳を傾ける。

『インカの民の精神的支柱としての「インカ皇帝」の属性の一部として、インカの民の士気を高め、その魂を高揚させることにこそ、おまえの存在意義がある。』

アパサの言葉が、彼の耳に再び甦る。

(自分の役割は、皇帝陛下を引き立てるためにある…!

それが、民の窮状を解き放っていくことにつながるのだ!!

その役割、果たしていかねばならぬ…――!!)

アンドレスは頭を下げたまま、ゆっくりと瞼を開けた。

その目に蒼い炎が燃え上がる。

アンドレスは、きっぱりと視線を上げ、真っ直ぐにトゥパク・アマルを見上げた。

トゥパク・アマルはアンドレスの心に応えるように、光を強めた目をして、ふっと微笑む。

「アンドレス、そなたは良く心得ているようだね。」

トゥパク・アマルの声はあくまで穏やかで、静かであった、が、しかし、その静けさの奥底から、何か、激しく突き付けてくるような気迫があった。

トゥパク・アマルの目元が鋭利に光る。

『アンドレス、そなたは、本当に覚悟を固めているのか。

完全にその身を投げ出せるのか。』

トゥパク・アマルの声は、目は、そう強く迫り、問い詰めてくるようでさえあった。

アンドレスは、思わず、固唾を呑む。

決意したつもりの彼の瞳が揺れはじめる。

彼の奥底で、何か、押し込めきれぬものが、再び、ざわめきだす。

アンドレスは、そんな己の内面の怯みを隠すように、殆ど反射的に、さっと目を反らした。

そして、隙間風に揺れる蝋燭の炎に、慌てて視線を落とす。

錯綜する自我

トゥパク・アマルは無言のまま、やや険しい色を浮かべて、僅かにその目を細める。

ディエゴもビルカパサも、アンドレスの横顔に、その真意を汲み取らんとするがごとくにじっと見入った。

トゥパク・アマルは、「まあ、よい。」と、低く言うと、場の雰囲気を切り替えるように、淡々とした声になって話しはじめる。

「部隊の損傷が増し、士気が弱まり、無気力が支配するような状況では、気力を高める将の力はとても重要なのは言うまでもない。

しかし、それは、攻めるときだけのことではないのだよ。」

アンドレスは空気の変化に、無意識のまま、心の中で小さく息をつく。

そして、蝋燭の炎から目をはずし、意識して武人らしい表情になると、トゥパク・アマルの方に再び向き直った。

トゥパク・アマルは、淡々とした声で続ける。

「撤退をする時にも、士気を維持することは非常に重要だ。

秩序を保ち、損傷を最低限にするために。

つまりは、一人一人の兵の命を守るために。

そのこともよく覚えておくのだよ。」

息詰めて見上げるアンドレスの瞳の中で、トゥパク・アマルの目は無言のまま、『そなたは、まだ、本当にはわかっていない。』と語っているようで、アンドレスの心は不安定に乱れた。

そして、再び、トゥパク・アマルが、静かに、しかし、今度は、やや力を込めて言う。

「最後に、将にとって最も必要とされるもの、それは責任に対する勇気だ。

そのことを、しかと心に留めよ、アンドレス。」

蒼き孤高

トゥパク・アマルの眼差しが、その瞬間、突き刺すばかりに鋭く険しいものとなり、アンドレスは己の心の奥底まで貫かれたような錯覚に襲われた。

既に鼓動が速まりはじめていた彼の中で、心拍数がさらに上がっていく。

アンドレスは無意識に、両手の拳を握り締めた。

彼の手の中に汗が滲む。

「そなたのもとにいる者たちの、幸も、不幸も、生も、死も、すべてそなたが責を負っているということを、決して忘れてはならぬ。」

トゥパク・アマルの声は低く、そして、変わらず静かだった。

しかし、その中に込められている非情なまでの厳しさ、険しさを、アンドレスは読み取った。

トゥパク・アマルの静かな眼差しの向こうで、しかしそれは、トゥパク・アマル自身がこのインカの地のすべての民のために自らに負わせている責に相違ない、と、アンドレスは察した。

その重みを、唯一人で、じっと耐え、甘受しているのだ、と。

今、トゥパク・アマルが、己に投げかけようとしているものは…――!!

アンドレスは、その瞬間、恐ろしく重いものがのしかかってくる重圧感を覚え、眩暈を感じた。

だが、恐らく、トゥパク・アマル自身もそれらと戦ってきたし、そして、今も、それらと孤高のままに戦い続けているのだ。

アンドレスは、いっそうきつく拳を握り締めた。

その拳が、わななくように震える。

トゥパク・アマルは、そんなアンドレスを、ただじっと見下ろしていた。

一方、アンドレスもまた、トゥパク・アマルの表情を、慄きの感情を押しのけて真っ直ぐに見やった。

ディエゴやビルカパサには、分かっただろうか。

トゥパク・アマルのその表情は、まるで修羅のごとくに、厳しく、険しく、決然としていたが、しかし、同時に、あまりにも苦しげで、悲しげでさえあったのだ。

アンドレスは奔流のごとくに迫り来る感情をぐっと押さえ込み、トゥパク・アマルの目を見据え続けた。

(逃げることはできない、否、逃げたくはない、しかし…――!!)

彼の心の中で、様々な感情が再び激しく突き上げ、うねり、渦巻いていく。

天幕を吹き抜ける風はさらに強まり、天幕全体が悲痛な叫び声を上げているかのようだ。

トゥパク・アマルは、その天幕の捻(ひね)り出す風の悲鳴にかき消されそうな低い声で、最後に言った。

「まだ若きそなたには、この後、試練も多いかもしれぬ。

しかし、我らの父祖である亡きインカ皇帝の血を色濃く継ぐ末裔の一人として、己の宿命を受け入れ、しかとその責を果たしてもらいたい。」

アンドレスの理性は、トゥパク・アマルの言葉に、もっとしかと力強く応えねばならぬ、と己を激しく叱咤していた。

だが、実際には、彼はまるで何かに押し潰されていくような危うい眼差しで、今はまだ小さく頷くのが精一杯だった。



キキハナ進軍

翌朝早く、隣郡キキハナへ向かう山間部の険しい道を進軍するインカ軍の元に、先遣隊として、いち早くキキハナへ向かっていた参謀オルティゴーサの一隊が、激しく砂塵を散らしながら馬で駆け戻ってきた。

オルティゴーサは、すぐさまトゥパク・アマルの元に騎馬のまま駆け参じる。

そのオルティゴーサの険しい表情に、馬上のトゥパク・アマルは瞬時に事態を察した。

「トゥパク・アマル様、キスピカンチ群の代官カブレラは既に領土を放棄し、いずれかに逃走したもようです!!」

激しく息を切らしながら、緊迫した、低く、太い声で、オルティゴーサが言う。

トゥパク・アマルもまた、やや緊迫感を滲ませた眼差しで頷いた。

「オルティゴーサ殿、ご苦労であった。」

トゥパク・アマルの言葉にオルティゴーサは恭しく頭を下げ、その場を下がる。

トゥパク・アマルは険しい目で、前方を見据えた。

手綱を握る手に、無意識のうちに力がこもる。

問題は、代官カブレラを捕えられなかったことではなく、そのカブレラがこの反乱を知り、その情報をもったまま逃走したということであった。

代官のことだ、恐らく、当地からは最もスペイン人による植民地支配の中枢に近いクスコ辺りを目指して、逃げ上ったに相違あるまい。

いっそう険しさを増したトゥパク・アマルの切れ長の目元が、鋭く光る。

かつてのインカ帝国の首都クスコには、今や植民地支配の中枢を牛耳るスペインの大物役人が数多くひしめいており、反乱の勃発についてクスコに知れることは、すなわち、首府リマに知られることと同義であった。

しかも、クスコには、この植民地におけるカトリック教会の頂点に立つ最高位の司祭、かのモスコーソもいる。

モスコーソ司祭がトゥパク・アマルたちを反逆者とみなす時には、それは、すなわち、この国のカトリック教会にとっても逆賊とみなされることに等しい。

今やインカの民にとっても精神的支柱となっているキリスト教に反旗を翻したとみなされることは、今後、トゥパク・アマルが民意をつかむことを困難にする危険性をあまりに多分に孕んでいた。

それは、彼が最も避けたいことの一つであった。

実際には、トゥパク・アマルはキリスト教が、今やインカの民にとっても重要な精神的支柱となっていることを深く認識していたため、今回の反乱の眼目の中には、キリスト教の否定は全く含んでいなかった。

しかしながら、モスコーソ司祭がそのような彼の意志など汲み取るはずもなく、むしろ、反乱を押さえ込むために、敢えてキリスト教への反逆者に仕立て上げ、追い詰める宣伝材料に利用してくる可能性はきわめて濃厚である。

手綱を強く握り締めたまま、トゥパク・アマルの表情は、一瞬、完全に動きをとめ、彼の頭の中で今後の対応への思いがめまぐるしく動き出していることが明らかに見て取れた。

マテリアル風の月

その時、トゥパク・アマルのすぐ傍にいた側近たちの中から、いち早く声を上げたのは、あのアンドレスだった。

「自分がすぐに代官の後を追い、捕らえて参りましょう!!

もはや一刻の猶予もなりませぬ。」

トゥパク・アマルの先ほどからひどく鋭くなった目を見据えるアンドレスの眼差しも、また、トゥパク・アマルにも増して鋭く、ことの重大性を明らかに見抜いているのがわかる。

しかし、すかさずディエゴが、アンドレスを制した。

「アンドレス、おまえにはまだ別行動は、はやすぎる!

まずは軍団と共にあり、己の隊をしかと統率できるようになることを学ぶのが先決だろうが。」

ディエゴはアンドレスの父親のごとくの眼差しで見下ろしながら、やや叱咤するような、それでいて、諭すような口調でそう言った。

トゥパク・アマルも、そんなディエゴの言葉に同意する。

そして、先刻から鋭くなっていたその目元に、今は静かな笑みをも湛えながら、その目を細めてアンドレスに言う。

「アンドレス、そなたの心意気は買おう。

しかし、ディエゴの申す通りだと、わたしも思う。」

「しかし…!」と、今にも馬を駆りださぬばかりのジリジリとした眼差しで、アンドレスはまだトゥパク・アマルを見据えている。

「こうしている間にも、代官は逃げ延びてしまいます!!」

ディエゴが「おまえが言わずとも、わかっている!」と、再びたしなめるような口調で言う。

それから、「全く、出すぎた奴だな。」と肩を竦(すく)めてから、しかし、すぐに父親のような包容力のある眼差しに変わって、「おまえが行かずとも、俺が行って捕らえてくるから、案ずるな。」と、アンドレスの肩を、その岩の塊のような逞しい手で一発叩いた。

ディエゴは、改めてトゥパク・アマルに視線を返した。

彼は、その巨大な、隆々とした体を反らし、力の漲る眼差しで、トゥパク・アマルに真正面から向いて言う。

「トゥパク・アマル様、自分が行って参りましょう!!

クスコまでは距離もある。

追いつける可能性もありましょう。」

トゥパク・アマルは、暫し、思慮深げな目でディエゴを見つめた後、静かな、しかし、ゆるぎなき声で言う。

「いや、そなたには、早速、分遣隊として兵を率い、近隣の郡に進軍してほしい。

同盟を結んでいる各カシーケ(領主)たちを助け、統治下に置く地を増やし、我らの元で共に戦ってくれる兵を募るのだ。

いずれにしろ、スペイン軍の討伐隊が向かってくるのは時間の問題であろう。

それまでの間に、我らインカ軍の兵力を増強しておかねばならぬ。」

傍でやりとりを見守っていた当インカ軍本隊の参謀オルティゴーサも、トゥパク・アマルの意見に同意した。

「トゥパク・アマル様の仰る通り、もはやスペイン軍との戦闘は時間の問題であろう。

まだ兵力の乏しい分遣隊を率いて各地に出征できるだけの実践力があるのは、今のところ、ディエゴ殿、そなたしかあるまい。」

トゥパク・アマルと参謀オルティゴーサに、熱い眼差しでしかと見据えられ、ディエゴは恭しく礼を払った。

「ありがたきお言葉!!

では、早速にも!」

ディエゴの力強い返答に、トゥパク・アマルは頷き、穏やかな笑みを返した。

アンドレスは、己の父親にも等しいディエゴのその頼もしい様子に、澄んだ瞳を輝かせながら敬意をこめた眼差しを送っていた。

トゥパク・アマルの表情は、はやくも既に落ち着きはらっており、完全に平常心を取り戻していることが見て取れる。

むしろ、その瞳には、いっそうの鋭い光が宿り、まだ見えぬ討伐隊の軍団を射抜くがごとくに強く、毅然とした色が燃え立っていた。

それから、トゥパク・アマルはあの包み込むような目をして、側近たちをゆっくりと見渡した。

「大丈夫だ、案ずるな。」と、その眼差しは語っているようだった。

そのトゥパク・アマルの眼差しに、側近たちも再び落ち着きを取り戻していく。

しかし、では、逃亡した代官を追うのは、どの者が…――?

再び、思い出したように、側近一同の間に緊迫した沈黙が流れる。

先ほどから、ビルカパサが、騎馬のまま何度も一歩踏み出しかけては、こらえるように再び一歩引くことを密かに繰り返していた。

再び、ビルカパサが、一歩、前に踏み出す。

しかし、彼には、いついかなるときもトゥパク・アマルを守るという任務があり、その主(あるじ)の元を容易に離れるわけにはいかなかった。

再び、アンドレスが身を乗り出しかけたとき、集団の端の方で、やや不安気な面持ちで場の様子をうかがっていたフランシスコが、「わたしが参りましょう。」と、意を決した声で名乗り出た。

その声には、明らかに緊張が滲んではいたが、覚悟の色も見て取れた。

相変わらず神経質そうな表情をした、ひょろりとしたこの男は、しかし、理知的な文化人的雰囲気を備えており、他の野性的で豪腕な雰囲気の側近たちとは一味違う精彩を放っている。

アンドレスと同様、インカ族とスペイン人との混血であったが、その文化人的な雰囲気と繊細そうな面持ちは、どちらかというとスペイン人によく似ていた。

このフランシスコは側近であると共に、トゥパク・アマルのクスコ神学校時代からの同窓生であり、行動的文化人的側面をも併せ持つトゥパク・アマルにとって、心許せる貴重な朋友でもあった。

また、トゥパク・アマル自身、本来はどちらかといえば物静かな寡黙なタイプの人物であったため、他の豪腕タイプのインカ族の者とはやや趣の異なる、この理知的で静かな雰囲気のフランシスコの存在は、彼にとってはある種の安らぎでもあったかもしれない。

実際、フランシスコは、トゥパク・アマルの息子たちの名付け親でもあった。

この時代の当地では、名付け親になることは、すなわち、義兄弟の関係性を結んだ証でもある。

トゥパク・アマルがいかにフランシスコを信頼しているかを、側近一同もよく認識していたため、フランシスコの申し出に口を挟む者は誰もいなかった。

トゥパク・アマルは、重大な任務を名乗り出てくれたフランシスコに深く礼をこめた眼差しを返した。

「フランシスコ殿、そなたに、この大役、任せよう。

わたしの精鋭の部隊を、そなたの供(とも)として連れてゆくがよい。」

長いつきあいになるフランシスコの心を察し、まるでその不安を和らげるかのように、トゥパク・アマルは穏やかな声でそう言った。

そしてさらに、「もはや代官はクスコ近郊まで逃げ去っているやもしれぬ。深追いすることはない。そなたが無事に戻ることを、第一と心得よ。」と、静かな声でつけ加え、微笑んだ。



こうして、逃亡したキスピカンチ郡の代官カブレラをフランシスコが追い、分遣隊を率いたディエゴが出陣した後、まもなくトゥパク・アマルらインカ軍本隊はそのままキキハナを首府とするキスピカンチ郡に進軍して当地を占拠した。

恐れをなした代官が遁走してしまったその地は、まともな戦闘らしきものも起こりえぬまま、あっさりとインカ軍の統治下に落ちた。

オブラヘの解放

かのティンタ郡の広場での演説と同じように、新たな占拠地でのトゥパク・アマルの高らかな呼びかけに深い感銘を受けた当キスピカンチ郡のインカ族の者たちや、当地生まれの白人、混血児、そして、黒人たちが、その日、新たにインカ軍に馳せ参じ、軍団はほぼ倍の人数に増強された。

当地に保有されていた武器類もインカ軍は手に入れ、その中には数十梃の小銃も含まれていた。

さらに、時を逸せず、そのままインカ軍は、キスピカンチ郡近郊にあるポマカンチ郡とパラパッチュ郡にある織物工場(オブラヘ)へと向かった。

これらの織物工場は、かの鉱山での悪名高い強制労働(ミタ)と等しく、スペイン人たち制圧者が、永年に渡り、言語を絶する過酷な強制労働をインカ族の者たちに強いてきた場所である。

そこはまさしく恐るべき牢獄に等しく、疲労と栄養不良と不衛生のために、無数のインカ族の者たちが、釈放を待たずにここで死んでいたのだった。

従って、この地を解放することは、トゥパク・アマルのかねてからの念願でもあった。

今や、大軍を前にして織物工場はあっさりと明け渡されたが、歴史上の資料によれば、トゥパク・アマルは、当地の労働者たちに生産物を分配したのはもちろんのこと、恨んでも恨みきれぬはずのこの織物工場を仕切っていたスペイン人の身内の者たちにさえ、去り際に羊毛3.5トン、染料2袋を与えている。

なお、これら占拠した各地には、よく訓練された専門兵の中から統率力に優れた者を司令官として選任し、屯軍として残し、各地の統治に当たらせた。



月&百合

ところで、トゥパク・アマルの館に構えたトゥンガスカの本陣では、彼の妻、かのインカ族の才媛ミカエラが、非常に良くその才を発揮し、活躍していた。

類(たぐい)稀なる美女でありながら、実に雄々しいこのミカエラは、いよいよ戦乱の世へ突入したこの時期、その才覚はいっそう目覚め、輝きを放っていた。

もちろんトゥパク・アマルとの間に生まれた三人の息子たちを養育する優しい母として、また、堅実なる妻としての側面をも併せ持つ彼女ではあったが、今、この戦乱の渦中にあっては、まさしく、本陣を離れている夫の代理、あるいは最も有能な参謀のごとくであった。

彼女は、各軍へ夫の指令を伝え、時には、夫に意見を進言し、また、占拠地の通行許可証の発行を取り仕切った。

反乱の火の手が続々と上がる中、未だ旧都クスコにも、また首府リマにも、スペイン側に反乱幕開けの情報が全く知られずにいたこと、さらには、やがて反乱勃発の事実をスペイン側が知ってしまった暁にさえ、スペイン側は、いつまでも反乱の実情をはっきりとは掴めなかったこと、それは、このミカエラの力によるところが大であった。

彼女は、決して秘密の漏洩のなきよう、万全を期した。

反乱軍の押さえた地域の中は、彼女の発行する通行許可証を持たねば通行することができなかったのだ。

さらに、彼女は、夫トゥパク・アマルが前線で戦っている間、この背後の本陣にて、インカ軍本隊をはじめ、各地の軍への武器や食糧の補給にも采配を振るった。

ミカエラは、パン、コカ、酒などの食糧の他にも、衣服、銃弾、望遠鏡など、軍が必要とするものは何でも揃え、補給した。

本陣の中枢での彼女の鮮やかな活躍ぶりは、インカ軍を、そして、夫トゥパク・アマルを、背後から紛れもなく強力に支えていたのである。



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