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コンドルの系譜 ~インカの魂の物語~

第八話 青年インカ(15)

夜の館

【 第八話 青年インカ(15) 】

ところで、遠征中のアンドレスが、隣国ラ・プラタ副王領にて水攻め作戦の準備を果敢に推し進めている頃、反乱の本拠地ペルー副王領の状況は、如何なる様相になっていたであろうか。

このペルーでは、脱獄したトゥパク・アマルの行方が未だ掴めず、スペイン側の上層部は煮え湯を呑まされたまま放置されたような、暗鬱たる状態にあった。

首府リマにある植民地統治機構の中枢、インディアス枢機会議本部―――。

その最奥にある豪華な執務室では、今、スペイン軍総指揮官アレッチェとモスコーソ司祭が、非常に苦々しい面持ちで、中央のソファに身を沈めていた。

スペイン軍総指揮官アレッチェ――生粋のスペイン人らしいガッシリとした体格に、黒々とした髪に縁取れた彫りの深い顔立ち。

相変わらずの冷徹な眼光を湛えた目は、しかしながら、今は眼前の人物に礼を払うように、やや伏せられている。

この傲慢なほどに尊大なアレッチェでさえ身を低めざるをえない眼前の人物こそ、この国における最高位の司祭――モスコーソである。

司祭が、その豪奢な僧衣を纏った恰幅のいい体をソファの背に深く反り返らせる度、胸元の巨大な十字架がゆらゆらと不気味に揺れる。

無数の宝石がちりばめられた巨大すぎる黄金の十字架――この国の最高位の司祭としてカトリック教会の頂点に立つ人物である証……。

否、単に宗教的な頂点に君臨するというだけでなく、絶大な政治的権力をも有する人物。

このモスコーソこそ、トゥパク・アマルやインカ軍にとって、表立った宿敵アレッチェの陰に隠れた、真の宿敵であると言えるかもしれない。



「余は…余は……おお……」

司祭は肥満ぎみの指先で、胸元の黄金の十字架をさすりながら、先ほどから執拗に同じ呻きと文言を繰り返している。

「余は、真(まこと)に、この国の先行きが案じられてならぬのじゃよ……!!

ついに脱獄までしおったトゥパク・アマル…!!

何故、見つからぬのじゃ…。

おおお…あの神への畏れを知らぬ輩(やから)を、これ以上のさばらせては、取り返しのつかぬ憂うべき事態になるぞよ……!!」

語りながら、いっそうの興奮を募らせ、まるで発作を抑えるかのように胸元と口を押さえているモスコーソの正面で、アレッチェは低く淡々たる声音で、しかし、一応の礼を払いつつ頭を下げる。

「はっ…――モスコーソ様の仰せの通り……」



スペインによる植民地化が進む中で、本来のインカの神々が息づくこの地にも、次第にキリスト教が布教され、それは、時と共にインカの民の心にも深く浸透していった。

結果、皮肉にも、侵略後200年以上を経た今となっては、もはや、キリスト教はインカの人々にとって不可欠な精神的支柱ともなっていた。

そのことを苦々しく思いながらも、現実として深く認識していたトゥパク・アマルは、此度の反乱においても、キリスト教そのものを標的にすることは決してなかった。

むしろ、激しい戦闘の最中でさえ、教会に危害を加えぬよう、常に細心の注意を払ってきた。

にもかかわらず、一方のスペイン側は、反乱軍鎮圧の大義名分として、トゥパク・アマルをキリスト教への反逆者として執拗に仕立て上げてきたのである。

――カトリック教会の頂点に立つ副王に盾突く反乱行為は、神への反逆に他ならぬ!!――そう声高に国中に宣伝することで、トゥパク・アマルの掲げる反乱の大義を根底から貶め、反乱に協力しようとする国民の意思を削(そ)ぎ、反乱軍を追い詰めるための容赦無い采配を振るってきた――その立役者こそ、この最高位の司祭モスコーソであった。

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インディアス枢機会議本部の置かれた建造物の最奥に、わざわざこの司祭のためだけに造られた特等の執務室は、まるで宮殿さながらに、舶来の華麗で重厚な家具と白亜の大理石の壁に彩られ、床には精緻な刺繍が施された臙脂色の絨毯が敷き詰められている。

その部屋の中央で、豪奢なソファにもたれかけた横幅の広い胴体を、司祭は、苛々とせわしなく揺すり続けている。

皴のよった額の下では、あの真意の読み取りにくい目がキュッと細まっては、時々、カッと見開かれ、また不気味に細まる。

「おおお……」

大袈裟な仕草で十字架を抱き締めたり、顔を覆ったりしながら、相変わらずの嘆き声を発しつつ、モスコーソは、その這うような視線をアレッチェの方へと走らせる。

「そちがあれほど苦労して捕えたトゥパク・アマルが…まさか、牢から逃げ出すなどと……!!

あの悪魔が、国中の従順なる子羊たちを、再び扇動せんとしているというに、手も足も出せぬとは……!

この事態を、何とする…何と……!!」

アレッチェは、再度、深く身を屈めた。

「此度のこと、全て、わたしの不手際によるもの。

申し開きのしようもございません。

いかなる処分でも受ける覚悟でございます」

「処分などと…馬鹿なことを申すな!

そち以外の誰が、あの悪鬼のごとくトゥパク・アマルと残党どもを討伐できるというのじゃ!!

それより、探すのじゃ!!

草の根を分けても、トゥパク・アマルを探し出すのじゃ!!!

未だ、あの謀反人の行方が知れぬのでは、余とて、副王陛下に合わせる顔が無いのじゃ!!

アレッチェ殿、捜索は、本当にぬかりなく行なっておるのか?!

何故、これほどに見つからぬ?!

トゥパク・アマルは、足手まといな妻子まで連れて逃げておるというのに……!!」

モスコーソの目が、再び、カッと異様に見開かれて、ギラギラと奇態な光を放った。

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一方、アレッチェの低く沈着な声が、重い空気の中で冷ややかに響く。

「モスコーソ様、国中に捜索の手を広げ、徹底的に探しておりますゆえ、時間の問題かと。

しかしながら、このような事態になりましたのも、全て、このわたしの不徳の致すところ……。

司祭様にも、副王陛下にも、お詫びの申しようもありませぬ」

そう応えながらも、内心では、もう幾度に渡って同じ調子で執拗に責め立てれば気が済むのか――と、アレッチェは俯(うつむ)いた顔を辟易で歪めた。

司祭自身も、その焦りと苛立ちを誰かにぶつけずにはいられぬ心境なのは分かるが、実に、不毛だ……。

トゥパク・アマルの脱獄後、クスコ界隈を捜索し尽くしたアレッチェは、捜索範囲を国中に拡張するため、インディアス枢機会議本部のある首府リマに戻っていた。

その彼を追うようにして、本拠地のクスコから、度々、このリマまで出向いては、わざわざ延々と文句を垂れ続ける司祭の態度に、アレッチェはすっかり嫌気がさしていた。

とはいえ、己の監視不行き届きで、トゥパク・アマルに、まさかの脱獄をされてしまったことは、動かしようもない事実だった。

しかも、その痕跡は忽然と消えたまま、もう数週間になるというのに、未だ、まるで掴めてはいないのだ。

(くそ……!!

トゥパク・アマル――どこへ消えたのだ…!!)

アレッチェは、下を向いたままギリギリと激しく歯軋りした。

(トゥパク・アマルのことだ…ここまで見つからぬとなると、あても無い逃走経路を捜索し続けるのは、今更、無駄かもしれぬ。

それより、あの者のことゆえ、こうしている間にも次の手を進めているに相違ない…!

早々に、我が軍も、次の戦闘準備の手配を進めておかねばならぬ。

この事態に至っては、あの者を再び捕えるなら、結局は、戦場が手っ取り早い。

今、あれこれ無駄な労力を要して探し回らずとも、トゥパク・アマルは、必ず、民衆の前に再び姿を現す。

そして、必ずや戦線に立つであろう。

なれば、そこを捕えた方が確実だ。

トゥンガスカの合戦では、既にインカ軍本隊をかなりの程度まで叩き潰しているのだ。

あと一息で…いや、だが、相手はトゥパク・アマル……。

しかも、向こうも、後は無い。

次こそは、どのような手を仕掛けてくるか……!)

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黒々とした前髪から覗く鋭い目が、瞬間、司祭の全身を冷たく一瞥した。

先ほどから、司祭は、これみよがしに胸元を押さえながら、顔を覆って蹲(うずくま)っている。

アレッチェは、苛立たしげに、拳を握り締めた。

(トゥパク・アマルが相手である以上、絶対に油断はできぬ…――。

我が軍は、さらに火器の整備を進め、新たに製造量を倍加し、早々に軍を建て直しておくが賢明。

なれば、なおのこと、このようなところで、司祭のお守りをしている暇など無い……)

アレッチェが内心で算段しながら舌打ちしている間にも、一方のモスコーソは、大袈裟に溜息を漏らし、額を抱えて、「おおお…どうしたらよいのじゃ!!」と、いよいよ大声で嘆き声を上げはじめた。

アレッチェは苦虫を噛み潰したような表情を懸命に押さえ込んで、ソファを立ち上がった。

そして、案ずる眼差しをつくって、顔を覆っているモスコーソの膝元に跪く。

「モスコーソ様、どうか、ご案じなさいますな。

このわたしが、必ず、反乱軍を一掃しますゆえ。

そして、次こそは、必ずや、あの悪魔のごとくトゥパク・アマルを司祭様の御前に引き連れて参りましょう」

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「おお…アレッチェ殿……」

モスコーソは顔を覆っていた肥満で膨れた手で、跪いているアレッチェの厳(いか)つい肩に掴みかかるようにして抱きついた。

そして、黄色く炯々と光る目をカッと見開き、アレッチェの鼻先まで顔を寄せて喘ぐように言う。

「頼んだぞ…アレッチェ殿!!

余は…余は…そちだけが頼りじゃ……!!

何としても、あのトゥパク・アマルを……!!」

「畏(かしこ)まってございます。

トゥパク・アマルと、その一族、側近もろとも、必ずや――!!」

アレッチェの鋭利な横顔で、あの冷酷な眼光が、一際、強く放たれた。





一方、クスコの牢を脱出して以来、追っ手の前からも、そして、インカの民の前からさえも、忽然と姿を消していたトゥパク・アマルは、果たして、この頃、何処にいたのであろうか―――。

彼は、この時、インカ軍本隊の一部と共にインカの天空都市マチュピチュ(Machu Picchu)にいた。

厳重な地下牢を破り、秘密の地下道を使って妻子と共に敵の手中から逃れた彼は、未だ、スペイン軍から執拗な追跡を受けていた。

故に、この山岳の秘密都市は、敵軍が近づけば即座に察知し得る地の利を有しており、追っ手から身を隠すには最適な場所である。

マチュピチュの総面積は約13キロ平方メートル、標高は2,057メートル 、古(いにしえ)の最盛期には1万~2万人の人口が暮らしたとも言われる。

インカを巨大な帝国へと導いた第9代皇帝パチャクティ(Pachacuti)によってインカの王族や貴族のための離宮として建設されたが、スペイン侵略後は、その自然の要害を生かして、インカの末裔たちが反乱の拠点としてきた場所でもある(註:マチュピチュの成立過程、及び、放棄等の経緯については、未だ確定的な定説が無いため、物語中の文章は、現時点での有力な見解に基づいて記載。なお、近年では、インカ帝国最後の都は、「エスピリトゥパンパ(聖なる平原)」と呼ばれる地で、マチュピチュではないとする説も有力である)。

トゥパク・アマル(註:この物語の主人公トゥパク・アマルは、正確には、トゥパク・アマル2世である)がその名を継ぐトゥパク・アマル1世も、かつて秘密都市を拠点にスペイン軍との壮絶な戦いに挑んだ――そのトゥパク・アマル1世も、最終的には白人の手に落ちて処刑されたが、処刑台を前にしながらの彼の毅然たる沈着な態度は、今もインカの末裔たちの心に深く刻まれている。

マチュピチュは、猛然と流れるウルバンバ川に囲まれた断崖絶壁の頂上斜面にあり、山麓からは、決して、その姿を確認できない。

インカ特有の精緻な石積建築の城壁に堅固に囲まれ、太陽神殿、宮殿、祭壇、住居等が階段式に並び、周囲に広がる長大な段々畑(アンデネス)は優れた灌漑設備を有して豊富な食料生産が可能であり、まさに要塞空中都市と呼ぶに相応しい立地と機能を有する。

しかしながら、インカ帝国侵略後200年以上も経た現在、トゥパク・アマルの眼下に広がるマチュピチュは、すっかり廃墟の遺跡と化していた。

ところで、マチュピチュは、厳しい自然に囲まれた山の頂(いただき)にありながらも、ここから多数のインカ道が旧都クスコをはじめとして国中に伸びており、絶海の孤島のごとくの当地にありながらも、国中の情報を仕入れ、また、指令を放つにも非常に優れた機能を有する場所でもあった。

トゥパク・アマルは、いずれ遠からず、マチュピチュから下界に降りて再び反乱を率いるその日に備え、妻ミカエラ、長男イポーリト、末子フェルナンド、そして、護衛の軍団と共に、一時的に、この地に腰を落ち着けていた。



今、彼は、ワイナピチュの頂に立ち、眼下のマチュピチュを見下ろしている。

ワイナピチュは、マチュピチュの背後に聳(そび)える山で、急峻な獣道を登っていくと、山頂まで上りつくことができる。

その山頂には、かつて歴代のインカ皇帝たちが座した一枚岩の堅固な玉座があるが、そこからは、眼下に広がるマチュピチュの美しい街並みの全容を、遥々と俯瞰することができるのだ。

金色の空

往年のインカ帝国の栄華を偲んでいるのか、あるいは、今後の反乱の展開を見据えているのか、黙って眼下の遺跡を見つめるトゥパク・アマルの精悍な横顔は、清冽な蒼天を背景にくっきりと映えている。

逞しく引き締まった長身に纏う黒マントと漆黒の長髪が、冬の冷風の中に舞っている。

ワイナピチュの頂に浮き上がる凛然たるその姿は、黄金色の陽光を受けて高貴で霊妙な覇光を放ち、まるで天空から舞い降りた太陽神の化身のようにさえ見える。

彼の元で再び護衛の任についているビルカパサは、少し離れた場所から感極まる思いで、そんな主(あるじ)の姿を見つめていた。

(トゥパク・アマル様……!

また、こうして、あなた様にお仕えできる日が来ようとは…!)

かつて、己の不始末でトゥパク・アマルが囚われてしまったと自らを呪い責め苛(さいな)んできたビルカパサの目頭は、トゥパク・アマルを目の前にする度、熱くなった。

そして、今度こそ、二度と、トゥパク・アマルをあのような苦境に追い込むまいと、己の胸の内で幾度と無く堅く誓いを立てていた。

ビルカパサの視線の先で、今、遥かなる聖都を、切れ長の目を伏せるようにして見下ろす主の横顔には、深い憂愁が宿って見える。

このマチュピチュでは、神殿や宮殿跡のみならず、かつてのインカの庶民たちの居住区も、ほぼ完全な形で残されている。

静寂な佇まいを今も見せているそれらの町並みに、ゆるやかな視線を注ぎ続けるトゥパク・アマルの胸の内は、静かに熱く込み上げる。

インカ帝国の首都であったクスコをはじめ、かつてのインカの町々では、侵略後、一般庶民の住居はスペイン人たちによって悉(ことごと)く破壊されてしまっていた。

しかし、眼下に広がる天空の秘都マチュピチュは、最後までスペイン軍の侵入を断固として許さなかったが故に、他所では破壊し尽くされた庶民たちの居住区も――今は、廃墟となった石組みの壁のみとはいえ――当時のままに残されているのである。

インカ帝国時代には、それら石組みの建造物は藁で屋根が葺(ふ)かれ、神殿や王宮は豊かな黄金で飾られ、長大で繊細に築かれた無数の段々畑には、ジャガイモ、トウモロコシ、ユカ、キノア、コカの葉など200種類以上の作物がたわわに実っていた。

だが、それほどに豊饒で堅固であったこの天空都市も、生き延びているインカの王族や兵を抹殺しようと執念の炎を滾(たぎ)らせて迫り来る執拗なスペイン軍の侵攻を食い止めるために、最終的には、やむなく当時のインカ皇帝や民たち自身の手によって焼き払われてしまったのである。

それは、トゥパク・アマルが生まれるよりもずっと昔の、彼の何世代も前の祖先たちの時代のことであるが……。



ひっそりと静まり返った廃墟と化したマチュピチュだが、それでも、今は、その一角に張られた彼の率いるインカ軍の天幕から、吹き上げる風に乗って、兵たちの闊達な号令や賑やかな話し声が微かに聞こえてくる。

トゥパク・アマルは、そんな生気溢れる声を乗せて流れ来る風を全身に受けながら、今、再び、インカの民たちの到来によって命を吹き込まれ、古(いにしえ)の賑わいが舞い戻ったかのような眼下の聖都を、愛しげに見つめた。

それから、彼は、ワイナピチュの山頂に立ったまま、吹き上げる風の中で瞼を閉じる。

そして、冷風に身をあずけながら、周囲の霊験な気配に意識を集中させた。

(今も…この都は、決して死に果ててなどいない……)

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トゥパク・アマルは、美しく研ぎ澄まされた目元を、ゆっくりと開く。

外見上は廃墟と化した寥々(りょうりょう)たる都ではあるのだが、目には見えねども、染み入るように清冽で力強いエネルギーが、この瞬間も、確かに、この天空都市に満ちていることを、彼は、はっきりと感じ取ることができていた。

次第に強まる風の中で、トゥパク・アマルは真っ直ぐに立ち、今一度、マチュピチュを遥々と見下ろした。

そして、静かに微笑むと、やがて、少し離れた場所に控えていたビルカパサをゆっくりと振り向いた。

「待たせてすまぬ。

そろそろ陣営に戻ろうか」

「はい、トゥパク・アマル様」

ビルカパサは俊敏に礼を払うと、サッと道を開いた。

ワイナピチュの急峻な山の斜面を敏捷な足取りで下りていくにつれ、絶壁に延々と連なる段々畑の跡地が次第に目前に迫り、ほどなく、それらの畑地に水を注ぐ水路から迸(ほどば)しる水音が、耳に心地よく響いてくる。

古の時代から、マチュピチュには、サイフォンの原理に基づく優れた灌漑技術があった。

丘陵の等高線に沿って水を引き、盛り土をしたり、逆に、削ったりしながら導水するその技術によって、ほぼ山頂に位置するこの場所でも、豊富な水を確保することができていた。

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そして、たった今、この瞬間も、当時のままに水路から流れ出す清涼な水音に耳をすませながら、トゥパク・アマルが低く響く声で言う。

「ソラータでは、アンドレスが、水攻めの策を進めていると聞くが」

ビルカパサは、精悍な眼差しで頷いた。

「はい。

そのように聞いております」

ワイナピチュを下りきると、マチュピチュの一角に張った陣営に向かって二人は歩み進む。

衛兵たちが、恭しく二人に礼を払いながら、姿勢を正して素早く道を空けていく。

「アンドレスがソラータを包囲して、どれ程になるか?」

トゥパク・アマルの問いに、ビルカパサは、畏まって応える。

「はい。

間もなく、3ヶ月程になりましょう」

「そうか…。

アンドレスもよく粘ったが、さすがに、そろそろ潮時か」

「アンドレス様の策は、このまま静観ですか?」

トゥパク・アマルは、静かな横顔で頷いた。

「ソラータの街中で人質とされている民の解放が案じられるが、むこうには、あのベルムデス殿も、アパサ殿も、ついている。

下手に踏み外すことはあるまい。

それに、実際、アンドレスの水攻めの策は、あの土地であれば、あながち的をはずれてはいまい」

「はい、トゥパク・アマル様」

ビルカパサは恭順を示すと、言葉を継いだ。

「それはそうと、アンドレス様の陣営には、皇子マリアノ様もおられるはずです」

トゥパク・アマルは、再び、深く頷いた。

そして、どこか思いに耽った遠くを見やる目になって、黙って歩み進める。

決死の逃亡の果て、自分たち父母からも兄弟からも、たった一人離れて暮らす、まだ10歳の皇子を思うトゥパク・アマルの心中を思うと、さすがのビルカパサも切ない感覚に憑かれ、思わず、たたみかけるように問いかける。

「マリアノ様も、アンドレス様も、トゥパク・アマル様が牢を抜けられたことを、まだ、ご存知無いはずです。

お知らせになられたら、きっと、どれほどお喜びになられるか……!」

トゥパク・アマルは、そっと目元を細めた。

「そうだな…いずれ、近いうちに、使者をやりたいと思っている。

そして、我々も、次の段取りに向けて、早急に行動を開始したい。

アンドレスやアパサ殿が、ラ・プラタ副王領での勢力を固めている間にも、我々が、しておかねばならぬことは多い」

そう語りながら、常の沈着で美麗な眼差しに鋭さを宿して、トゥパク・アマルは、真っ直ぐ前方を見据えた。

そこに、何かの到来を、はっきりと見出しているがごとくに―――。

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ビルカパサは反射的にトゥパク・アマルの視線の先を追うが、彼の視界には、長大なアンデスの霊峰が遥々と広がるのみである。

ビルカパサが、今ひとたび、トゥパク・アマルの方に向き直ると、トゥパク・アマルも、その視線をゆっくりとビルカパサの方に返した。

相変わらず沈着ながらも、強い光を宿した面差しで己を見入る主の前で、ビルカパサは、素早く居住まいを正した。

「ビルカパサ、そなたにも、そろそろ伝えておかねばならぬことがある。

この後の戦(いくさ)のことで…――」

「はっ!

何なりと!!」

ビルカパサが、逞しい体を屈め、すかさず深い恭順を払う。

トゥパク・アマルは僅かに頷くと、周囲に衛兵たちのいないことを確認し、声を落として話しはじめた。



マチュピチュの谷間を一陣の強い風がビョウと音を立てて駆け抜け、トゥパク・アマルの漆黒の長髪が、吹き抜ける風によって宙に舞い上がる。

やがて、一通りを話し終えたトゥパク・アマルの前には、愕然と身動きできずにいるビルカパサの姿があった。

「…――!!―――」

精霊の魂

驚愕と混乱と恍惚の面持ちで、言葉を継げずにいるビルカパサに、トゥパク・アマルは、低く沈着な声で言う。

「驚かせたかもしれぬ。

無理もあるまい。

わたしとて、このことについては、かなりの思案が必要であった。

だから、ビルカパサ、そなたが納得いくまで、わたしなりの考えを幾らでも話すゆえ、何なりと問うがよい」

「――は…はい……」

普段は、トゥパク・アマルの言葉に即座の絶対的な恭順を示すビルカパサも、さすがに今は、鷲のような鋭利な横顔を強張らせ、眉間には深い皺を寄せたまま、返す言葉に詰まっている。

このビルカパサとて、単に武勇の腕に優れるのみならず、この反乱全体を常に感情統制の行き届いた冷静な視野で展望し続けてきた、慧眼の廷臣である。

そもそも、その資質なければ、トゥパク・アマルの護衛など務まるものではない。

やがて、ビルカパサは、深刻な面差しでトゥパク・アマルに幾つかの質問をした後、僅かに眉間の皺を緩めたが、しかしながら、その厳しい表情はなかなか変わらない。

トゥパク・アマルは、すっと目を伏せた。

「そなたの気持ちは分かる。

だが、既に、手はずは進めてしまっている」

「!!…――す、既に…?!

では、トゥパク・アマル様…こ…っ…このことは、皆、知っているのですか?!」

上擦った声を放つビルカパサの額には、冷風の中にもかかわらず、かなりの汗が滲んでいる。

「いや…。

まだ、このことは、ディエゴとベルムデス殿にしか伝えてはいない。

トゥンガスカの本陣戦の最中、今、そなたに話した書状を送る際に――あれは、わたしが囚われる前夜のことであったが、あの二人に内々に伝えたのみだ」

トゥパク・アマルは吹きつける風を切るようにして、雪を頂いた遥かなる霊峰に、その研ぎ澄まされた横顔を向けた。

「その後、あるいは、ベルムデス殿が遠征先のアンドレスに伝えているかもしれぬが、それも定かではない。

このようなことは、下手な伝わり方をすれば、民や兵を、いたずらに誤解と混乱の中に陥れるだけであろう。

言うまでもないが、今暫くは、そなたも決して他言はならぬ」

「は…はい……」

ビルカパサは、まだ咀嚼し切れぬ難しい面持ちで、曖昧に頷いた。

「ビルカパサ、そなたの案ずる気持ちは、よく分かる」

相手に視線を戻しながら、トゥパク・アマルが深遠な声音で続ける。

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「確かに、このことに伴うリスクは、非常に大きい。

わたしの、この采配は、一歩誤れば、民を新たな苦境に追いやる危険が多大に伴うであろう。

ディエゴも、あのベルムデス殿さえ、にわかには首を縦には振らなかった。

―――だが、あれほどの火器を携えたスペイン軍主力部隊と、このまま戦闘をただ繰り返していても、遠からず、限界が来る」

「――はい……」

ビルカパサは視線を落とし、きつく唇を噛み締めた。

暫しの後、ついに、ビルカパサは吹っ切るように決然と顔を上げた。

そして、非常に真剣な眼差しでトゥパク・アマルに向き直った。

その瞳の色は、己の中に生じた多大なる惑いと懸念を踏み越えて、己の意思の元に、今、改めて、主を真っ直ぐに信じていこうという新たな強い決意に彩られている。

「トゥパク・アマル様の仰せの趣旨、良く分かりました。

その御計画が滞り無く進みますよう、わたしも最善の力を尽くしたく……!!」

「ビルカパサ…――」

トゥパク・アマルの端正な面差しが、光を宿して静かに微笑む。

一方、ビルカパサは、その太く凛々しい声音を、やや押さえながら問う。

「では、トゥパク・アマル様――その書状が先方に届いていれば…そろそろ……?」

「うむ。

何がしかの動きがある可能性はある。

早々に、極秘裏に偵察隊を放ってくれるか―――」

「はっ。

畏まりました」

「頼む」

「はっ!

ただちに!!」

めったにないほどの緊迫と恍惚を漲らせて身を低めるビルカパサの全身に、礼を払うかのように視線を走らせると、トゥパク・アマルは陣営の方へと踵を返した。

夕暮れの大地

ワイナピチュの峰を背景に、いっそう強まる風に煽られながら、次第に暮れなずむマチュピチュの石畳を歩む彼の黒マントが、漆黒の翼のように大きく翻った。



ところで、トゥパク・アマルがビルカパサに語った秘密の戦略の、その展開の様相を水面下で探りはじめた頃、まだ、彼は脱獄の事実を対外的には公にしてはいなかった。

それは、スペイン側の追っ手の目を掠(かす)めるためもあったが、インカの民にとっても、戦況の不安定な現段階では混乱の元になりかねぬ危惧があったこと、及び、最も効果的な時機を捉えて民の前に現れ、一気に士気を高めたいという狙いもあってのことだった。

しかしながら、一方で、彼は、このマチュピチュを拠点として、そこから国中に通じる幾筋ものインカ道を利用し、各地に伝令を放ち、信頼できる有力な同盟者たちと密かに連絡を取りはじめた。

また、それらのインカ道を通じて国中に多くの巡視隊を放ち、戦乱による被害状況をつぶさに調べていった。

マチュピチュにはられた陣営と国中の各地とを、日々、健脚な斥候や巡視隊の密使たちが、険しい山岳の道を通って絶え間無く行き交い、トゥパク・アマルの元に様々な最新の情報をもたらした。

そして、トゥパク・アマルは、それらの情報を元に、淀みなく必要な采配を振るっていく。

明けの微香

今も、彼は廷臣たちと共に軍議の席に臨みながら、巡視の使者たちのもたらした情報に耳を傾け、やや沈痛な面差しで切れ長の目を伏せていた。

そして、一通り聞き終えると、全体を見渡しながら、あの低く響く声で語りはじめる。

「この反乱が幕を開けて以来、既に、1年が経とうとしている。

戦乱による爪跡は大地に痛々しく刻まれ、戦地以外の地でも、調べを進めれば進めるほど、国中の田畑の荒廃具合の甚(はなは)だしさが明らかになるばかりだ。

我がインカ軍には多くの民が義勇兵として参戦してくれているが、わたしの力不足故に、思いの外、反乱が長引いてしまった上、未だ決着を見ておらず、今、この瞬間も、国中の田畑はやむなく放置されて疲弊の一途を辿るばかり。

ましてや、戦場と化した土地の周辺は、スペイン軍の砲火に焼け焦げ、荒廃のさまは目も当てられぬ惨状……」

沈着ながらも苦渋に満ちたトゥパク・アマルの口調に、ビルカパサをはじめ――ちなみに、この頃、トゥパク・アマルの副将ディエゴは、大軍を率いて下界で守りを固めていた――その場に参集した廷臣たちも表情を重く曇らせる。

かつて農耕の合間のみを縫って戦をしていたインカ帝国時代ならば、決して有り得ぬ悲惨な現状に、トゥパク・アマルも、そして、彼の家臣たちも、非常に苦々しい思いを抱かずにはいられなかった。

さらに、トゥパク・アマルは、机上に大きく広げた地勢図の上に、しなやかな褐色の指先を走らせながら、噛み締めるように続ける。

「いや…これらの大地が荒廃しているだけではない……。

義勇兵として参戦した者たちの帰還を待ちながら、細々とながらも懸命に田畑を耕してきた女性や老人たちの苦難は、想像に余りある。

当然ながら、実際に参戦した義勇兵たちとて、この期に至っては、さすがに相当の疲労が蓄積していよう。

このまま次なる戦に臨むのは、民にとっては、あまりに負担が大きい」

廷臣たちも、その厳つい身を深く屈めて、誰しも深刻な面持ちになっている。

トゥパク・アマルは、今も静寂な眼差しのままに、そのような廷臣たちをも包み込むように全体を見渡すと、深遠な声音で決然と言う。

剣と十字架 小

「今は、何も置いても、全ての民や農地の休息と救済が必要な時。

まずは、そなたたちも、そのことに意を注いでほしい。

限られた期間にできることには限界もあろうが、それでも、なお、根底から建て直す尽力無くば、我がインカの勝利なぞ、あり得まい――!!」

深く恭順を示す家臣たちの前で、トゥパク・アマルは、さらに続けていく。

「この後、義勇兵たちには報酬を与え、順次、郷里に戻して休ませる。

そして、今ひとたび、国中の同盟者たちに使者を放ち、各領内の窮状にある農民たちの救済に当たらせよ。

同盟者の多くは各地の有力な領主や豪族たちゆえ、己の領内の民や農地の状況には、あの者たちが最も精通していよう。

スペイン側の植民地支配中枢部は、今は、我らの反乱鎮圧に意識を奪われている。

各領内の細かい動きにまで目が向かぬ今なら、領主や豪族たちも、領民を庇護し救済するために、それなりに自在な采配を振るえるはずだ」

「はっ!

皇帝陛下――!!」

永遠の蒼光

さらに、トゥパク・アマルは、そう遠くはない将来、再び彼が糾合をかけるその日まで、各地の同盟者たちの元で果敢に戦ってきた義勇兵たちにも報酬を与えて順次休ませ、その一方で、新たな義勇兵を募り、訓練を開始した。

また、彼自身も、クスコ近郊に陣を張る副将ディエゴを表向きの司令塔として立て、背後から己の財を投じて、疲弊した各地の農村の救済に当たりながら、戦乱による傷跡を癒すことに専心した。

実際には、それらの表向きの采配の裏側で、もう一つの重要な秘密の計略を見据えていたのだが……。

しかしながら、それについては、まだ、ほんの一握りの重側近たちしか知らぬことであった。

こうして、トゥパク・アマルは、マチュピチュを拠点に種々の指令を放ち、同盟者や同盟軍とのネットワークの強化、義勇兵の休養、その一方で新たな義勇兵の募集・訓練強化、同時に、持てる私財をも投資して国中の荒れた田畑の復興や、戦乱のしわ寄せを受けている人々の窮状の把握と援助を行いながら、反乱再起の態勢を基盤から立て直すことに尽力していった。

次なる反乱の展開のために…――!

そう…次こそ、真に、この反乱の最終決戦になるであろう、その日のために―――!!



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