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紺洲堂の文化的生活

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カテゴリ:アニメ
 まだ、映画「ゲド戦記」を見直していないので、まだ前回の「『ゲド戦記』を見て考えたこと1」で感じた違和感の正体は分かりません。何でしょうねえ、これは。

 ただ職業柄、この映画を見て思い出したのが本田技研工業です。

 そう、あの天才技術者・本田宗一郎が創業した、日本を代表するメーカーですね。本田さんは、戦後日本を代表するカリスマですが、彼には藤沢武夫さんというパートナーがいらっしゃいました。本田さんが技術、藤沢さんが経営を見ることで小さなエンジンメーカーが世界のホンダへと躍進していったことは、有名な話です。


 では、なぜスタジオジブリとかぶってしまったのか。それは両社とも、カリスマの夢を実現するという目的から創業された会社だということです。

 本田技研は天才技術者・本田宗一郎の理想とするエンジン、2輪、4輪車を作るために立ち上がり、スタジオジブリも天才アニメ作家・宮崎駿の作りたい映画を作るために立ち上がりました。どちらも、日本を代表する才能がいかんなく発揮されるように、彼らの夢を実現するために作られたという点に関しては似ております。

 しかも、この二人とも天才なので、自分が他の社員よりも技術が分かっているという自負もあるし、実際にもそのとおりで現場ではグイグイと若い社員を引っ張っていくのですね。自分の考えにこだわって新技術(本田さんは水冷エンジン、宮崎さんはコンピュータ)の導入を渋っていたというのも似ています(笑)


 ただ、大きく違うことがある。それは、企業の永続性に対する考え方です。

 「私は、やはり万物流転の掟が、いつの時にか本田技研にもあてはまる時がくるのではないかと思い、これから先永遠に繁栄させるために、どういうことをすればよいのかと考えている」
藤沢さんが1956年に社報に寄せた随筆の書き出しだそうです。孫引きになってしまいますが、
ホンダのDNA継承術」ホンダのDNA(でぃーえぬえー)継承術

こちらの本から引用しました。

 藤沢さんは、当初からいかにホンダが永遠に続くようにするかに腐心していたようです。
藤沢さん本人が書いた「経営に終わりはない」
経営に終わりはない

には、こういった文章があります。

「本田宗一郎が死んだときに株価が暴落するようでは、その処置ができていないということです。本田宗一郎のつぎを、一人でまかなえるという人はいない。また、その必要もない。一人でやったら、これはかえって危険です。
 そこで、複数の知恵を集めれば、本田一人よりもプラスになる。本田宗一郎の持っている力よりもレベルの高い判断力が生まれる。そういう体制をつくらなければならないのです」P.102

 「すべて本田宗一郎がいなくなったらどうするかというところから発想されたことです。本田の未知への探求という基本は貫かなければならないけれど、彼個人の挑戦には限界があります。彼の知恵が尽きても、それに代わるものがどんどと現れてくれるような、それでも逆に企業が伸びてゆくような組織体を作ったつもりです」P.136

 役員が大きな部屋に集まって討議する「ワイガヤ」方式は有名ですが、まさに天才・本田宗一郎がいなくなったあとでも企業が存続できるようなシステムを構築しているのです(このあたりが、藤沢さんの偉いところですね)。天才は作れないし、おそらく本田宗一郎以上の人間を出すのは難しい。だからこそ、凡人が自分の得意な領域をもって集まることで、集団で天才を超えようということです。


 ところが、スタジオジブリはそうではありませんでした。

 鈴木敏夫プロデューサーのインタビューに、こういったものがあります。


「実は、僕は「もののけ姫」を終えたらジブリを閉じようと思っていました。実際に宮崎駿(監督)にも提案しているんです。もうそろそろやめようって。その前、「魔女の宅急便」(89年公開)を終えた時には、宮崎がもうジブリをやめようと言い、その時は僕が反対して、「もののけ姫」の時は僕がやめようと提案した。2人でジブリをやめよう、やめようと交互に言っていたわけです。

 私がジブリをやめようと思ったのは、そもそもジブリは宮崎駿作品を作るために設立した会社だったからです。彼が年を取って作品を作れなくなったらおのずとなくなる。」

 鈴木さんは、初めから宮崎駿とともにスタジオを終わらせるつもりでした。当然、後進の育成方針についてもホンダとは違いが出てくるでしょう。

 「宮崎駿のアニメを作る」目的の組織であれば、宮崎駿の表現したいことを100%実現できる体制作りが求められます。先日、紹介した鈴木Pのインタビューでも、後進の監督に対してあれやこれや指導しまくるハヤオ監督が出てきますが、まさにそれです。根底には、ハヤオ監督が作りたいものを作るための組織だからこそ、たとえ自分が監督をしない作品であっても口を出し、挙句の果てに若手から監督権を奪ってしまうのです。

 スタジオを存続させるために若手を育成する、とかいった姿勢ではなく、やはり自分がやりたいから口も手も出す。しかも、ハヤオ監督がやった方が面白い、となってしまう。それでも別に構わないし、ジブリが無くなってしまっても構わない、というある意味「経営者」とは言えないインタビューです。しかも、それを鈴木Pは自覚して開き直っている。

 この日経のインタビューでは、どうして鈴木敏夫プロデューサーが態度を改めてスタジオを存続させようとしたのかまでは書いてありません。「続けたかったから」としか書いていない。

 世界一速い「ゲド戦記」インタビューでは「心のどこかで『もうスタジオを閉じてもいいかな』と思っているところもありますが、やっぱりこれからを考えている若い人に対する責任もあります」と社員に対する責任から続ける、というニュアンスの発言もありますが、どうして方針を転換したのかは、ちょっと分かりません(ご存じの方がいらっしゃいましたら教えてください)
 

 なぜ、これを思い出したかと言えば、今回のゲド戦記の作り方が、この本田宗一郎引退後のホンダ役員室と重なったからです。つまり、全員でディスカッションしながらワイワイガヤガヤ作っていくという形式ですね。

 それまで作品の元になる「絵コンテ」は個人が描いていたそうですが、今回はそうではなくいろいろなイメージを「イメージボード」として絵に描いて、それを壁に貼り付け、いろいろなスタッフと議論しながら全体の構成を決めていくという方針にしてゲド戦記は作られたそうです。(制作日誌より)


 おそらく、ジブリの鈴木Pもホンダの藤沢さんと同じ「天才の後に、どう企業を存続させていくか」ということを考える立場になりました。だからこそ、天才である宮崎&高畑のような作り方ではなく、あえてアニメの素人である宮崎吾朗を起用して、今までとは違った制作手法(ピクサーから学んだイメージボードを前にみんなでディスカッションする)を駆使して集団で物作りをするような体制へ持っていこうとしているのではないでしょうか。

 その点で鈴木敏夫プロデューサーの戦略は、経営者として当然だと思います。といいますか、かなり真っ当な判断でしょう。ハヤオ監督も、それがわかっていて今回は全く口を出さないようにしていたのではないでしょうか。

 もっとインタビューから邪推するならば、宮崎駿に正面からモノを言えて、宮崎駿と距離感を保てて、映画の全体が俯瞰できて、スタッフ(プロジェクト)を纏められて、そこそこ絵が描けて、原作を読んだことがある人材ならば誰でも良かった。それがたまたま鈴木プロデューサーの周囲には素人のゴローしかいなかった、というところが、ジブリ社内に人材が育っていなかったことを露呈しているのかもしれません。

 ま、好意的に解釈すれば、いままでのジブリの延長線上においては不可能であった集団でのモノ作りは、アニメ制作の経験がない素人のゴロー監督がいたからこそできたとも言えます。よくありますよね。「業界の常識」とか「社内慣例」でニッチもサッチも行かなくなったところに外部の人間が入ることで新しい仕組みができる、というパターン。素人ゆえに常識にとらわれない、経験がない故にエキスパートの話はちゃんと聞く。だからこそ今までとは違うやり方を開発できた。そんなところなのかもしれません。


 今回のような凡才が集団で制作する体制への布石を打ったということは、おそらく間違いではないでしょう。長期的に見て、宮崎駿級の天才を連れてくることは期待できないし、天才の個人技を期待していたら経営はできません。スタジオジブリ社を続けるならば、どうしても集団で作らざるを得ない。一人一人は天才ハヤオに勝てなくても、みんなの知恵と長所を出し集団で勝つようにしなければいけないのです。

 であればこそ、社内的にこの「集団作戦」が成功したならば吾朗さんが監督をし続ける必然性もなくなります。つまり、彼の大きな功績は、集団で作品を作るという方法論を社内に導入したことかもしれませんし、おそらく彼しかできなかったでしょう。この集団体制のプラットフォームさえできれば、もしかすると吾朗さん以上の適任者が社内にいるかもしれません。だからこそ、この集団体制でつくる第2作目(それがゴロー監督かどうかも関係なく)が、ジブリ社の底力を試す正念場になるでしょう。


 ただ今回の映画で残されたのは監督ではなく、プロデューサー。つまり鈴木敏夫本人の後継は誰がやるのか、という問題です。その監督とプロデューサーが円満に交代することでジブリが集団制作体制が完成すると思うのですが・・・。






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Last updated  2006.08.12 01:56:06
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