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紺洲堂の文化的生活

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カテゴリ:アニメ
 「ゲド戦記」について書くのも、これが3回目となってしまいます。
 といいますか、この文章自体は金曜の夜にレイトショーを見てから書いているのですが、更新がこんな時間になっております。やはりエントリーを書いても、一日一更新は守りたいので・・・。

 今回は2度目の鑑賞なのですが、一番気になったのは「ゴローだから出来ないポイントとゴローだからしないポイントはどこか?」ということです。前のエントリーにも書いたのですが、この映画は非常によく考えて作られています。自分としても、前回感じた違和感の正体は、そこにあります。よく考えて作ってあるにもかかわらず、なぜこうも「面白み」が無いのか。

 つまり、見終わった後の私の感想としては、映画を見たあとの満足感というか達成感、爽快感がない。といって、だからどうすれば良いか、と映画のシーンを思い浮かべてみても「どうすればいい」の代案が見当たらないのです。つまり、あのシーンをこう変えれば良くなる、と思っても映画で表現したいこととは違ってきてしまうし、他のシーンと合わなくなってしまう。一体、これはなんだろう、と思ってしまったわけです。
 
 だからこそ、「ゴローだから出来ないポイントとゴローだからしないポイントはどこか?」を見たかったわけで。

 2回目で見終わった感想から書きます。総じて、なかなか面白い作品であったなと思います。ちょっと理屈っぽく、左脳的な内容ではありましたが、良かったなあ、と思いますよ。以下は内容について触れているので、未見の方はご容赦を。

****ここからはネタバレがありますので、ご注意ください*****

















 この映画の荒筋は

父王を刺して出奔
⇒ゲドと出会って旅
⇒アレン捕まる
⇒ゲドに助けられテナー家居候
⇒農作業
⇒テルー歌
⇒アレン出奔&クモに拉致される
⇒ゲド&テナー拉致される
⇒テルー、剣をアレンに届ける
⇒ラスト

となっております。

・父王を刺した動機についてはキチンと触れられてはいませんが、父王の立派な仕事ぶりと母親の態度、テルーへの告白で十分想像がつきます。逆に父親との確執などの分かりやすい動機をあえて描いていなかったように思います。

 もし、そういった父親との確執を描いた場合、自分の分身として「影」が出てくるのが分かりづらくなる。あくまで、悪くない父親を刺してしまったのは、自分が自分と向き合いたくないためであった。当然、刺すための強い動機が無かった、ということを暗示しているように思いました。父親を乗り越えるという意味で刺したわけでもないようですし・・・。

 どちらかというと、父王には居なくなってほしいが、そこまで強く居なくなれとは思っていない。居なかったらいいのに、というレベルで生か。どちらかといえば「失踪したくて父王を刺した」ような様子ですね。だからこそ、強い動機が描かれていない。


・テルーの歌のシーンまで低調な展開ですが、これはかなり意識的にしていますね。アレンの閉塞感、何をしようか分からない、自暴自棄な感じがよく出ておりました。なかなか上手いのですけど、もう少し観客を引き付ける何かがあった方が良かったかもしれません。たとえば、父を刺したことを伏せておいて、ほのめかすぐらいにしてテルーへの告白まで引っ張る、とか。閉塞感を感じさせるのもいいのですが、やはり観客を引き付ける工夫があったほうが、ここまで非難されなかったかもしれません。

・セリフの多さは、アニメというか演劇的ですね。アニメや映像表現では少ない手法でしょう。だからといって、彼らのセリフを映像で表わすとしたら・・・・。うーん、これもまたしっくりこない。

 たとえば、冒頭の会議シーンで被害報告をすべて映像化する(倒れていく家畜のシーンとか)というのも、何か違う気がします。そんなの映像化する必要ないでしょうし。また、ハイタカがアレンに色々と教える場面・・・。これも映像化するとおかしいなあ。説明フィルムじゃないんだから。やはり演劇的にならざるを得ないか。

 ある程度、原作から引用したと思われるセリフを減らして編集しなおしたほうが、一般受けしたかもしれません。



・剣を受け取ってからアレン役の岡田准一さんの声が急に生気を帯びてくるところはGoodですね。私は、この変わり具合が非常にアレンの変化をよく表していると思います。

・ただ、後半の剣を受け取ってからの展開に高揚感と言いますか、爽快感がない、客観的な視点のまま最後まで行ってしまいます。うーん、もうここまで来たらハヤオ監督のような躍動感を出しても良かったかも・・・・。でも、それをしちゃうと、クモをやっつけるということが、単純な善が悪に勝つ物語的になってしまうし・・・。匙加減が難しい。観客としては、そこに躍動感が欲しかったですけど。

・剣が抜ける展開も納得。父王のように国民を守るような立派な人には抜ける。でも、いくら人助けとは言ってもウサギたちに捕えられようとしていたテルーを助け出した時には抜けなかった。やはり、あの時は自暴自棄に暴れたいだけで、決してテルーの命を守るためではなかったから(だからテルーを殺すと言ったウサギに「やれよ」と言ってしまうわけで)。

 あの展開で抜けたのは、真にアレンが人を守ろうと思って剣を抜こうとしたからだということが納得できました。


・クモ単独犯人説には、ちょっと疑問。結局、クモ一人が死と生の扉を開けるということで、この世界の変化の元凶になっているのか!と。つまり、バランスを崩そうとしていた黒幕はクモだけなのか、ということです。「他の一般人も、やはり知らず知らずにクモに加担してきた。その総意というか象徴としてクモがいて、でもクモを倒しただけじゃ世界の均衡は戻らない」ということがないとなぁ・・・・。ちょっと、ここは頂けません。

・クモを「殺した」のは、「命を大切に~」に反するか、という点。これは「クモはもう、死んでいる」ので殺していない様に思います。クモの目の描写などを見ても、ちょっとこれは死んでいるな、と思いました。まあ、理屈っぽいですが、クモは死んでいるにも関わらず、自分は生きていると思っている。それがなぜ可能かというと、とっくに扉を開いているので、その生死の境があいまいになっている。扉が開かれているからこそ、世界の均衡も崩れている、といったところでしょうか。

・最後、無声のカットがいくつか続きますが、結局、アレンは国に帰ってどうなったのかが非常に気になる。観客としては、帰還して病床の父王に許しを請い、日々世界に均衡をもたらそうと精進するアレンを見たかった。もちろん、ゴロー監督は、あえてそのあたりを観客に任せておいたと思うのですが・・・。

 この辺りは、私も趣味で書いている自作小説に対して、よく言われました。「えっ?これで最後?続きは?」boominからも、あまりにも不親切だ、と言われたことも。でも、このあたりで留めておきたい、そこまでは言いたくない、という意識が書き手としてはある。でも、読者としては座りが悪い。

「ゲド戦記」を見て考えたこと1にて、aiwendilさんから「観客側も腑に落とすための着地点を見出せずにいるのではないか」というサジェスチョンをいただきましたが、まさに見終わった後はそう思いました。

 全体的に、この映画は観客に見終わったあとの爽快感ではなく、考えさせることを目的に作られおり、あえて安易な着地点を作らなかったようにも思います。だからゲドも説教話をしますし、描写は必要最低限。でも、監督はそれで十分だと考えているだろうし、私も考えてみて、その描写がなぜ最低限にしてあるのかも窺えるのですが・・・・。


 おそらく、そのバランスが悪かったのかな、と思うのです。

 つまりどれぐらいの観客がどこまで作品について来れるかを見誤った、といいますか。この匙加減は、何本か作ってみないとわからないポイントだと思いますし、「良き消費者」と「表現者」を分けるポイントでもあると思うのです。

 一応、映画産業も客商売ですので、成績を上げなくてはなりません。ついてこられるやつだけついてくる映画、でもよいのですが、これだけ大規模に公開する映画であれば、「ある程度」普通に見る人でもついて来れるだけの何かが必要なのでしょう。

 これは、いくら自分が良き消費者であっても、マスの観客がついてこられる分岐点を見極めるのは難しそうです。表現したいことと観客の理解度を天秤に計って、ベストなポイントで作品を仕上げなくてはいけませんので。

 このあたりは宮崎駿監督は上手に、いろいろなネタを仕込んでいるので両方ともクリアしている。観客の理解度(満足度?)を上げるために、カワイイキャラクターや躍動する主人公を出しております。

 ところが、ゴロー監督の場合はそれらの「仕込み」を入れずに作品を仕上げることにし、観客の理解度を信頼して「あえて」監督による着地点も提供していなかったように思います。

 まあ、そのあたりのバランスの良さ・・・観客と表現のバランスを少し客側に向けていたら、ここまで非難されていなかったのかもしれないなあ、と思った次第。



 悪い映画ではないと思うし、これだけ自分の言いたいこと、表現したいことが明確であることは良いことだと思います。私は原作を読んでいないので、「原作とは違う!」とか「原作から持ってきただけじゃん」といったバイアスや予備知識が無いので、そういった点からの批判はできませんが、映画単体で見た場合は、それほど悪くはなかったかな、と思います。自分としての不満は、世界の不均衡がクモ一人を倒したことで解決するんかい!という点だけですね。



 ゴロー監督の日誌に、こんな文章が出てきます。「つきぬ心配」というタイトルです。

「それに、いつも思うのですが、私は自分が作ったものを
自分で解説するのがとても恥ずかしく、苦手なのです。
とうとうと自作について語っている作家の方を見ると、いつも感心します。

この辺は鈴木プロデューサーからも常々、
「ゴロウ君は説明を省略しすぎ!」と言われる原因になっています。
こんなことを考えていると、再びブルーになってくるのでした・・・。」

 映画に対する取材に応えることについて書かれたことですが、まさにこの作品自体もそうであるように思いました。







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Last updated  2006.08.21 19:03:11
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