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2011.10.08
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三十五

寝顔を見つめながら昔を想う橙の心にはっきりと彼の姿が浮き上がった。
母の前を何度も何度も行きかう。必死にボールを蹴り追いかけてはつま先を使いはじいた。
得意な彼の表情は、その母の視線を意識してのこと。
橙の心にあどけなさの十分な大の姿が焼きついていったのである。
「あの頃も無邪気、今だって平和に世俗を観察しているのだから、やっぱりっていう感じね、ふふふ」
彼はそんな彼女の言葉に反応したのか大きないびきの中で、時折口ごもったようなしぐさを見せていた。
「でもね、大、危険が迫っているの。例の飛行機を落としたやつら…」
切れ長の彼女の目が大きく見開いた。そして、つぶやいたのだ。
「今度はあなたを狙ってくる」
こんな路地裏に風など舞い込んではこないだろうに、店の戸ががたがたと揺れた。
店主は洗い物の手を止めるや、顔をそのほうに向けた。
「はて?珍しいな、もう秋風か?」
橙はそんなことに頓着せず、ただじっと大を見つめていた。
店の扉を開ける店主は、客に「寒いからしめてよ」としかられていた。
彼女はそっと彼の耳元に顔を近づけ、これからのことを話し出したのである。
「あなたも気がついていることでしょう。あなたの母、彼女は奇跡的にその事故で生存こそ出来た。確かにたったの一瞬、一時だけれどね。でも、その一時のおかげで私は彼女の思いをしることができたの。」
彼女のいう飛行機事故。
大と再開したその前の年に起きた事故である。
羽田発ジャンボ旅客機が韓国に向けて空路を南西に移してからしばらく、日本海が見えたあたりでそれは起こった。
回収されたフライトレコーダーによると、自動操縦での飛行にもかかわらず大きく旋回しようと機体が傾き始めたという。急な不具合にパイロットは冷静に対処すべく手動操縦に切り替えたがまったく機体の操縦がきかなくなった。
そして突然エンジンが停止したというのである。
上空200キロメートルにあった機体は急激に高度を下げ始めたのである。その時今まで生じていた不具合がうそのように元に戻り、機体も安定を取り戻していった。機長も副操縦士も、その誰もが奇跡に歓喜した。
「これで飛べる」
そうつぶやいた瞬間、尾翼のまさにその上から何かが絡みつくかのようにじりじりと進行方向の逆側に引っ張ったのである。
更に、上空でありえない停止を余儀なくされた機体はその尾翼を残し二つに折れ海へまっさかさまに落ちていったのである。
「メーデー、メーデー何かが…何かが…機体を・・・うゎぁぁぁぁっ!」
落ち行く機体はところどころで爆発を起こし海の藻屑となってしまった。
当然生存者はゼロ。乗客420名は絶命であったと報じられた。ただ独り、体にキズ一つ無く日本海の沖合いで漂う彼女以外は。
大の母のことであった。
12時間後彼女の体は石川県のとある大学病院の集中治療室にあった。微かだが命の兆しが見えたのである。
「おちゆく体の中から魂が、彼女の魂が抜け出した。そして何かの力が彼女の体を加護したのね」
「彼女の声がはっきり聞こえたわ。近江の海のほとりに立っていた私に彼女は『すぐに来て』といった」
「その顔は昔の活躍で見せた荘厳さはなかった。今にも朽ち果てそうな、か細いもの…」
そして、すぐさま石川に向かった橙は薄れ行く彼女の意識の中に入っていった。

店主が気を利かせて彼女に薄手のタオルケットを持って客室にはいってきた。
彼は大のすぐ横で顔を並べていた彼女のことをちらりと見て「ちょっと冷えてきたから」とそれを手渡した。
橙は座りなおし、「ありがとう」というなり、グラスをとって一気に飲み干した。
「わたしも酔ったみたい。もういいわ。少し横になるから」
かえり際にグラスは引き取られ、客室の扉が閉まった。

「あの飛行機には管夫妻もいたそうよ。そればかりではないみたい。あまりニュースにはならなかったけど四国でベテランの雲水が崖から転落事故をおこしていたり、同じ時期に伊豆の神社が全焼したことも、すべて絡んでいるって」
もらったタオルケットを肩からかけてひざを抱えながらそうつぶやいた橙は鋭い目を大に向けた。
「母を、母達をやった奴等がくる」
「とても危険な、そして、今後の未来を破壊する那伽……」

「我ら天部の片割れを抹殺。狙いは判らない……。でもこれだけはわかる。今度は大が、あなたが危ないの…」

先ほどより大分大きく店の扉が震えた。
「私が護るから」

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Last updated  2011.10.08 14:23:52
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