カテゴリ:日々思う事
昨年のブログで2007年を
一文字で表すというのを載せましたが あの時から病院のベッドの上などでも考えていました 僕にとっての2007年を きっと特別な話じゃなく 世間によくある話ですが 長く 少し重い文章になると思います あえてブログに書くのを避けてきましたが 昨年の夏 事務所の代表者でもある父が亡くなりました こんな内容をブログに載せるのはどうかと思いますが 凡人の僕には もう表現する場所もなく 告別式のたった5分程度の喪主の挨拶ではとても語りつくせない 2007年は僕にとって 年明けて直ぐ 1月に入院した父との事が 全てと言っても過言ではありません 世間では やたらと 「東京タワー」という映画が評判になっていた 昨年の1月に父と一緒に医者の話を聞き 医学の事はよく解りませんでしたが 事態がとても深刻である事は よく解りました 正直言うとその時から もう僕は覚悟はしていました 現実を受け止めれない僕は その日一人アパートに帰り 酒を呑み 2時間ほど 泣き叫びました 1月と2月に 2回 人目の無い 晩遅くに 近所の神社で 産まれて初めて 御百度参りをしました 裸足でやったほうがいいというので 砂利の中 寒さと痛さで 感覚が途中なくなり どんぐりが突き刺さり足の裏はボロボロ 祈っていたというより 今までのことを懺悔してるのに近い 明日も必ず会えるとは とても思えなく 入院後すぐ 父に伝えたいことを言いました 数年前 どんな人間になりたいかを 分析をした事があります 「相手の立場、地位に関係なく 誰にでも 笑って話しかけられ 媚びることも無く 人から笑顔で話しかけられる人間」 それは他の誰でもなく 僕の父親の姿そのままでした とても仲の良い親子とは言えなく いつも喧嘩ばかりだったので 僕自身が驚きました 「どんな人間になりたいかを考えたら たどりついたのは お父さんだったよ」 それを伝えました その後 死を前提にした話はどうしてもできなく 息子の立場からの話をすると悲しい想いをするといけないので 自社事業を今後 こうして行こう思うという未来の話しか 最後までできませんでした 相手が悲しむという話を避けてきたのは 僕だけでなく おそらく父も同じだったと思います 覚悟はしていても 自分がそれを認めたということを お互い相手には伝えられませんでした 「人は何の為に生きてるのか? 生きてる意味は?」 そんなことを考えました きっと特別なことじゃなく こういう時誰でも考えると思います 修行や旅に出る訳にもいかなく できる事は せいぜい 書籍を求めるぐらい ある著名な経営者の本に 「人間が生きる意味は 人格を高める それ以外にはない」 と明確に書かれてました そうなのかもしれない しかし それで納得するには 僕はまだ若すぎる 自分で考えた答えは 「伝える事」 そう思いました 日常の些細な事、助言、 時としてそれは文句かもしれない 何かを人に伝えて行くこと 言葉だけでなく 行動、態度も そうだと思います また伝える気がなくても 人に伝わってしまうこともあるでしょう 結局 表面的なことでなく 本質的な部分、正しさがなければならない それが伝わり 受け継がれていく そうすると きっと恥ずかしい事ができなくなります そう考えれば 「人格を高める」にも最終的には たどり着く 「生きてる」ということは きっと「死ぬ」までのことです そう考えると 変な言い方かもしれないが 「死に方」というのは その人の「生き方」の一部に思える 「死」は「生」の一部分だと どこかで聞いたことがある 闘病生活の中 特に何も特別じゃないように暮らす父の姿が 僕を悲しませた 医者の告知の時も 父は平然としていた そして その後の約半年間も まるで 生きるも死ぬも変わらぬかのように 父は何を思っていたのだろう 「自分のせいで 悲しい想いをさせたくない」 きっと そう思っていたのでは また逆に 嘆き悲しむ僕たちを見て 父はどう思うのだろう きっと自分のせいだと さらに辛い思いをするのではないか そう感じた僕が自分に誓ったのは 仕事のこと それと もう1つ 何が起ころうが 人前で 特に父の前で決して泣かないこと しかし二度ほど どうしても床に泣き崩れそうな瞬間がありました 5月末 医者と二人で話して もう治療が無理だから 延命治療をするかしないかの選択を今してくれと せまられた時 それと 実はその4ヶ月程前 入院した翌日に 父と二人 病院の片隅で もしもの場合 延命治療は選ばぬよう父に言われた時 一度崩れると もう立てそうにないのが解っていたので 何とか 堪えました 表情をあまり変えないと言われる僕でも 一瞬どうしても顔が平静を保てなかった 最後 昏睡状態の中 家族、兄弟が病院に集まりました 看護師は 最後まで 耳は聞こえる と言ってました 聞こえてしまうので最後の瞬間まで 泣く訳にいかなかった 最後に父に伝えれた言葉は 他の何でもなく とても短い言葉でした 「今まで有難う御座いました」 感謝の言葉以外は何も頭にうかばなかった 体全体を使って息を吸う姿は 最後まで生きようとしてるように 僕にはそう見えました 息を引き取った数分後 誰も居なくなった病室で 床に泣き崩れました 思い出せば 僕は小さい頃から 泣き虫で よく怒られていた 普段は見えない 色んな物を見ました 自分の体がそんな様態でありながら 最後の最後まで弱音を言わなかった強さ 逆に現実を受け入れられなく 悲しみにくれる周りの人間の弱さ 残念ながら 人にはそれぞれに言い分があり 自分こそが正論だと主張する醜さ そんな事関係なく日々やって来る 現実の厳しさなどを 色んな人が手伝ってはくれますが 結局最後は その場で 自分の足で立ってる自分なんだと思いました もう力を落としてしまって嘆いてばかりの母親 仕事しながら 葬儀、一連の手続きにも 一人では限界があり 助けを求めても 「あんた一人で全てやればいい」 と冷たく断る実の姉 涙1つ見せない僕に腹を立てているのか 自分の目に見えるものだけが全てだとでも思ってるのか 限界というのは どこかは解りませんが 上手く表現できないけど 「体がちぎれる」 そう感じる日々が続きました こんな無茶苦茶な時 それでも 人は前に進むため 笑ってないと生きれないんだとも感じました 楽しいから 笑うのが当たり前と思ってたけど それだけじゃなく 苦しいから笑うこともある 笑いは悲しみ 苦しみの半面でもある 昔から 父がよく 何もないのに笑っていたのが 理解できなかったけど 今では解ります 楽しかったんじゃなく 苦しかったんです だから せめて笑っていた 父の涙を 僕は今まで見た事がありませんでした 息を引き取る 直前 最後に父が流した涙を考えたいんです どういう意味の涙だったのかを 「今度産まれかわっても 親子になりたい」という 姉が最後まで 訴えていた言葉が届いたのか 無念の涙なのか それとも それを考えたいんです 結局 最後まで父は 家族に特に何も言い残しませんでした 親戚は 何も言われない僕を可哀想だと言いました 事細かく言うのも その人の想いかもしれませんが 日常の行動、態度からどう伝えたかったのかを考えるほうが 重要な気がしました 父が伝えたかった事はこれから考えていきます 文末になりますが 父の為 お忙しい中 葬儀にご参列頂いた方々 異業種交流の同友会で代表理事御夫妻をはじめ、 副代表理事、各支部支部長、異業種交流委員、 倉敷の役員 会員、青年部など数多くの皆様 どこからか話を聞いて ご参列下さった道場の師範、その他道場の皆様 有難う御座いました そして何より長年 父とお付き合いを頂きました方々 皆様に最後伝える言葉もありませんが 数年前 父と二人での酒の席で 「自分はどうにも金には縁がなく 財産らしきものを何1つ持っていない しかし 友人だけは自慢できるほど沢山いる それだけが自分が手に入れた財産だ」 そう言って 酒飲んで いつもの あの大きい声で笑っていた父の姿を まるで昨日の事のように思い出します そのようなお付き合いを頂き 今まで有難う御座いました お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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