朝日新聞出版、マンガ日本史「山本五十六」。
1884(明治17)年、山本五十六は、新潟県の旧長岡藩の士族・高野家の6男として生まれました。
五十六の名前は、父の貞吉が56歳の時に生まれた子ということで、
父の年齢がそのまま、名前になったそうです。
山本五十六は、なんだか勇壮なイメージのある名だと思っていたのですが、
ネーミングは意外と単純だったのですね。
高野家は、代々儒学者の家柄で、また槍術師範でもあったそうで、
五十六も、子どもの頃から、勉強熱心で成績もよく、また、スポーツも得意だったそうです。
中学を卒業すると、海軍兵学校へ進学。
1916(大正5)年、海軍少佐になると、
旧長岡藩家老の山本家の養子となり、これから、山本姓となります。
1919(大正8)年、アメリカ駐在員として渡米。
この時、語学研修も兼ねて、ハーバード大学に留学。
帰国後、海軍大学校の教官などを歴任。
その後、再び、日本大使館付き駐在武官として渡米。
そして1941(昭和16)年12月8日、日本海軍によるアメリカ軍真珠湾基地の奇襲攻撃。
この奇襲攻撃を指揮したのは、日本海軍が誇る戦略家連合艦隊司令長官・山本五十六でした。
しかし、2度の渡米で、アメリカの国力を目の当たりにしていた山本五十六は、
この戦争の結末を見通し、
真に「お国のため」を思い、最後まで戦争を避けようとしていたのです。
しかし、時代の波は開戦に。
軍人として国に尽くす心を持っていた五十六は、
忠誠を尽くし、身を賭して戦いに挑み、
そして1943(昭和18)年、
ブーゲンビル島上空で、アメリカ戦闘機に撃墜され、
戦争の終わりを見ることなく、亡くなります。
格言となるべき言葉もいくつか残しました。