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今夜のニュースで、茨城の県立高校の校長が必修単位不足問題で*自殺*したと報じられた。教育者が自殺してしまう状況の中で、子供達に自殺するなと、いったいどうして教えられようか。
亡くなった方を非難したくないのだが、こればかりは頂けない。ニュースを聞いた瞬間、思わず、唖然としてしまった。 この校長先生が自殺したのは、いじめられたからか、責任を感じて「切腹」したつもりなのか、怒りからか、悲しみからか、私にはわからない。だが、そんな理由など、分かりたいとも思わない。申し訳ないが呆れただけだ。 さなえさんと言う方が触れておられるとおり、自殺の国別の多い少ないに関しては、その宗教的な背景が非常に大きく影響している。私が自殺しないのは、何を隠そう死ぬのが怖いからなんだけれど、一応、信仰上の理由にもよる。 神様から与えられた命を自分の都合で捨ててはいけないという、キリシタンでない人にはさっぱり納得できないだろう理由から、自殺は禁止、なのだ。 それに加えて、キリシタンになると孤独というものに絶望しなくなるという、これまたキリシタンでない人から見れば傲慢極まりない、何て都合の良い生き方だろうか、多分、ハタからは神経症患者とゆーふーにしか見えないと思うんだが、そーなっちゃうもんだから、自発的(?)な自殺に追い込まれることは、まずなくなる。 (でも絶望はしなくても、寂しさは感じますんで、その点の弱さは変わらないです) ・・・えっ? 殉教したがるだろうって? あたしゃ絶対ヤだぞ(爆) では、武士道とか儒教とかのしきたりではなく、みんなしてキリスト教信者になれば解決するのかと云えば、それはちょっと無茶な話で、そんなことをしようとすれば、ただ迷惑なだけのファシズムと一緒だ(笑)。 否、ファシズムというか、宗教に対して大いなる勘違いを持った方々の、安易な考え方でしかない。信仰なんてもんは、押し付けたり、先祖伝来で継承できたり、教科書で説明して分かって貰えたりして受け取って貰えるもんじゃない。しつけと同列で扱えるものではないのだ。 そりゃ多くの人に、この福音が伝わるのは嬉しいけど、同じ信仰を持つ仲間が増えるのは喜ばしいけど、こうした「いじめ-自殺」の問題解決の手段として提唱できるものではないのだ。 それは重々承知の上で、しかし、それでも、やはり、生と死の問題を扱う以上、宗教的要素は排除できないのかも知れない。公教育の現場で、それは、できないしなぁ。。 それならば、やはり、まっとうな宗教家たちが、公教育以外の場で、立ち上がるしかないのかも知れない。 校長センセの自殺報道に反応してしまった次第だ。 ---* こちらの楽天 blog は、楽天 blog 以外からの tb を < エロ記事対策のため > 受け付けないようにしています。楽天のブログは、そのあたりがまだ弱いようです。どうか、お許しくださいますよう。 ---* お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2006.10.31 03:24:49
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