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1.なぜ、サッダーム・フセインは強大な権力を手に入れることができたのか?
1979年にイラン・イスラム革命によってイランにシーア派のイスラム共和国体制が成立し、イラン政府は極端な反米活動を展開した。しかし、革命の波及と政権転覆を恐れる周辺のトルコ・サウジアラビアなどの親米派アラブ国家の批難を浴び、アメリカも強硬に非難した。 中東の反米政権を潰す目論みを立てたアメリカのロナルド・レーガン大統領率いる政権は1984年にイラクと国交を回復し、1988年に至るまでサッダーム・フセイン政権に総額297億ドルにも及ぶ巨額の兵器供給を行った。1983年12月19日にはレーガン政権から派遣されたドナルド・ラムズフェルドがイラクを訪問し、フセインと90分におよぶ会談を行っている。 サッダーム・フセイン政権は1980年から1988年まで国境紛争でイランと戦い(イラン・イラク戦争)、この戦争のさなか1988年3月に、フセイン政権が国内に住むクルド人に対して、毒ガスを使って大量虐殺を行った。当時のアメリカのレーガン政権もこれを黙認した。 イラン・イラク戦争でアメリカがイラクを支援した理由には、イランが他の中東諸国にイスラム革命の輸出を行なえば、サウジアラビアやクウェート、アラブ首長国連邦などスンニ派が実権を握る宗教色の薄い親米政権が危うくなり、石油の確保などアメリカの利益も危ぶまれる可能性があったからだとされる。 (以下はジョージ・ワシントン大学がアメリカの情報公開法に基づき政府に開示させた資料を元に書く) アメリカはラムズフェルド(前国防長官)を特使としてイラクに派遣、全面的な支援を約束した。武器提供・石油パイプラインの建設などでイラン・イラク戦争の開戦を促した。イラクとアメリカの会談の際、話が化学兵器に及ぶとアメリカ側のジョージ・シュルツ国務長官は「我々は特に問題視していない」と答えた。そのため、イランと結びつく危険のある国内の反対勢力である少数民族のクルド人に対して化学兵器が使用されたとされる。また英国メディアによるとこの時期、イラクに向けて化学兵器・生物兵器の原料がアメリカ、イギリスから輸出された。
湾岸戦争 1988年に終結したイラン・イラク戦争は、イラクを中東の軍事大国へと押し上げる一方で1970年代の近代化政策がもたらした富をイラクから失わせ、サッダームの関心を、イランに代わって、豊かな石油資源を持ち、以前からイラク人によってイラク領と主張されてきた隣国クウェートへと向けさせた。アメリカは中東の軍事バランスを抑制するためイラクへの支援を打ち切っている。 サッダームは1990年、クウェートに侵攻し、これを占領、併合を宣言する。しかし、アメリカをはじめとする国際社会の猛反発を受け、翌1991年の湾岸戦争でアメリカを主力とする多国籍軍に敗退した。 世界の警察であるところの、アメリカが自分の利益を守るために、サッダーム・フセインに大量の資金と兵器を与え近隣の国で大量虐殺を行わせ、サッダーム・フセインをコントロールできなくなったため、大量殺戮兵器を持っているという罪で、サッダーム・フセインを殺してしまった。その大量殺戮兵器をサッダーム・フセインに渡したのは、アメリカ合衆国じゃなかったのか? 死の商人、アメリカ合衆国の面目躍如である。 殺人兵器さえ売れれば、余は満足じゃ!
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最終更新日
2007年01月06日 23時15分57秒
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