ひねもすのたり牧場日記

2009/03/25(水)12:37

夢見る頃を過ぎても♪

私の母は今年76歳になる。今は認知症になってしまって、いろんなことを忘れてしまっているが、少女時代のことはよく覚えている。今でも「うちに帰りたい」というときの「うち」とは少女時代に過ごした自分の実家のことだ。 母が小学校6年生のときに終戦になったので、少女時代は戦争と食料や物資のない時代だった。そんな時代をくぐってきた母だが、美しいものや心を豊かにするものは大好きで、小さな田舎町にたまに東京のほうの楽団がきたり、お華の展示会があったりすると連れていってくれるような人だった。 そんな母の価値観を創り上げるのに、少なからず影響を与えたであろう人物がいる。中原淳一という人だ。その名前と「女の子の絵を描く人」という程度の知識はもっていたけれど、ほかはどんな人なのかなんて知らなかった。 ただ母の少女時代からの親友という方から届いた手紙に「あなたはやせっこで色白で目が大きくて、中原淳一さんの描く少女のような女の子だったわね」と書いてあったのを見て、名前を知った。 だけど、何枚も洋服を買えるわけでもなく、物も容易に手に入らなかった時代に彼に希望をもらい、美しいものを愛する気持を教えられた少女は多かったようだ。 以前、作家の田辺聖子さんがテレビに出て中原淳一について語っていた。「物がなくても工夫と気持の在り様でおしゃれをしたり、豊かにくらせますよということをあたくしたちは先生に教えていただいた。」と、まるで10代の夢見る女の子みたいにきらきらとした表情で話していた。 たとえば洋服を何着も買えなくても、襟をいくつか作っておいて付け替えるだけで幾通りかの着こなしができますよとか、手狭な茶の間もこんな風に家具や雑貨をレイアウトすることで垢抜けた印象になりますよとか。何百という、自分で結うだけでアレンジできるヘアスタイルを掲載した本を作ったり。 最近、不景気やバブルのつけであまりお金をかけずに上手に暮らしましょうなんて特集がテレビでも雑誌でも組まれているが、それに先駆けること60年余りまえ、彼はすでにそんなライフスタイルや心の豊かさを提案していたのだ。 母の親友は横浜に住んでいて、大手の会社に就職し、ずっと独身でキャリアウーマンとして働いていた方だが、けっして無駄な贅沢などせず、おしゃれするにしても質のいい、仕立ての良い服を買い、それに付け替えるようにスカーフやアクセサリーをいくつか持っているくらいだったらしい。 それでも一流といわれる音楽や舞台などはぽんっとお金をはたいて観にいくような人だった。晩年は知的障害のある弟さんと、寝たきりのお母さんの世話でご苦労なさったが、ほんのちょっとの空き時間にでかけたときに、美しい和紙でできたレターセットや、栞などを母と私に送ってくださるような女性だった。 母とその方は遠く離れたところに住んでいたため、ずっと手紙のやりとりをしていて逢っていなかった。その方のお母様のお葬式のあとに母が訪ねていったことがあった。何十年かぶりである。 二人はいろんな話をしたという。中原先生の雑誌が買えなくて、担任の先生が毎月買って皆に見せてくださったわよねとか、何も娯楽がなくて堤防を二人で並んで歩きながら私のハモニカに合わせて、あなたが歌って歩いたわねとか。 昨今の殺伐としたニュースが流れる日々から考えると、なんと微笑ましい心豊かな光景だろう。 それから何年かして、その親友の方はご病気で亡くなられた。亡くなる直前まで母にお手紙を下さった。母も毎日のように「○○ちゃん、よくなりますように」と祈っていた。 母は認知症になった今でも出かけるときはクレンジングで念入りに洗顔し、ブラシにガーゼをかぶせて髪をとかし、洋服の色と合う帽子やスカーフを探したりしている。どんなに年をとっても消えない、美しく心豊かに暮らそうとする価値観を、母も親友も、あの時代の沢山の少女たちも、中原淳一という人からプレゼントされたのだ。 母にも、日本中のあの頃の女の子たちにも不自由ななかでも夢見る少女時代があって、「どんな自由な夢を見てもいいんだよ。いかようにも心豊かに暮らせるんだよ。」と道標になってくれた人がいて、本当によかったと思う。 中原淳一の幸せな食卓 本物は時が流れても、けっして色あせない。

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