スチュワデスが呆れたドクタートヒモイ公式げすとはうす ~世界は基本的に広い~んですけど・・

2022/06/06(月)08:30

決算期の激務の合間をかいくぐって目黒寄生虫館へ。

目黒寄生虫館に行ってきた。目黒駅を降りるのは初めてである。目黒駅から有栖川宮とは反対の方向に、商店街沿いに10分少々歩いた所に、それはあった。 寄生虫関係のトイモイ蔵書は5冊程度かと思われるが、遂に、総本山に辿り付く事が出来、感慨深いものがある。マリアカラスがサナダムシを健康のために飼っていたとか、ライヤルワトソンが大切に体内に育てていたとか、花粉症がここまできたのは清潔になりすぎて回虫などの寄生虫が体内にいなくなったからだとか、ベトナムで刺身食ったら、皮膚の下で何かが動くようになっただとか、まあ、いろんな話がある。  高校の時の「目黒」のイメージと言えば、田中角栄宅以外(あ、あれは目白か、日本女子大の隣か)には、やはり目黒エンペラーであろう。  1970年代に目黒区下目黒2丁目にオープンした目黒エンペラーは、日本のラブホテル史上の記念碑的な存在とされている。外観は西洋の城のようで、内装も豪華だったようだ。これ以降、日本の各地に派手でけばけばしい外装のラブホテルが林立した。電動回転ベッドが話題になったのもこのころであろう。キッチュラブホテルの夜明けであった。  目黒エンペラーの開業は多くのマスコミが面白おかしく取り上げ、一躍有名になった。当時、高校生や中学生でも知っていたくらいである。1980年代に関西で高校生であった私でさえ「目黒エンペラー」と言えば必ず笑いをさそったし、隠微なワイセツ感はなく、一種の道化の象徴、軽口のネタですらあった。 しかし、その役目は終え、ひっそりといつしか幕を閉じたようである。おそらく、ラブホテルが、ファッションホテルだの、ブテックホテルだのいわれるようになってからなのであろう。  ネットで調べると、どうやら「目黒倶楽部 石庭」という名前に変わり、まだラブホテルとして機能しているようである。と、思ったら、偶然にも写真に収めていた! 私の場合、一応、おかげさまで、コレラにもチフスにもマラリアにも罹ったことがない。しかし、ボルネオ島でおそらくデング熱はもらったようだ。蚊を媒体とし、特に予防薬はない。デング出血熱はやばいが、デング熱の死亡率は1パーセント以下である。しかし、熱は猛烈に出る。3~15日間の潜伏期間(ボルネオ島卒票旅行でいた)を経て、38~40度の熱が5~7日続く(入社式の翌日から1週間欠勤。1日で会社辞めたのかと思われていた。)私の場合、熱は生命危険の42度まであと1度と迫り、本当に宙を浮いているようで、何だかおかしかった。 それにしても、ギョウチュウ検査は懐かしいなあ。 小学校の時、運動の凄く出来る奴がいて、幅跳びが凄かった、このままでは、学校の代表で大会に出るなあと皆で話していた矢先に、校内放送で、職員室まで彼の呼び出しがあった。「おおー、ついに代表や、学校の代表や、おめでとー」と皆は口々に彼を讃え、彼は自慢げに職員室に向かって行った。 彼は、肩を落として帰ってきた。「ギョウチュウ検査ひっかかった・・・」 大学生の時、友人の知り合いがベトナムから帰ってきて、暫くして、陰茎が腫れだした。写真のように地面に付くほどではなかったが、痛くもないが、恥ずかしいので家族には話せずにいたが、やっぱり医者にみせていた。本当に太ももが3本になったそうである。

続きを読む

このブログでよく読まれている記事

もっと見る

総合記事ランキング

もっと見る