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テーマ:☆アテネ五輪☆(335)
カテゴリ:スポーツ歪曲視点
日本の野球が終わる。
そう思ってしまうくらい大きな大きな敗戦だったと思います。 結果論で選手個人をボロカス言ってる人もいますが、さすがにそこまでは言う気になれません。 しかし・・・ 1チーム二名までという明らかに本気でない人選。 監督に至ってはベンチにも入れないのになぜか監督のまま。 長嶋JAPANという言葉は空虚でした。 最初から「お飾り」だったということ? しかも代行が中畑清じゃあ・・。 選手個人がどうこうと言うより、この中途半端な編成で負けてしまったことが問題ですね。 余計に傷口が広がってしまった感が否めません。 それでも出ちゃった以上は勝たなきゃいけなかったんですよね。 あのいぶし銀の宮本選手の涙はみてられなかったなあ。 プロフェッショナルなのでミッション・インコンプリートともなれば責任は重いんですが・・・。 北京オリンピックには本当に野球界一丸となって、真の意味で最高の選手と首脳陣を送らねばならなくなりましたね。 正式競技として残れば、ですけど。 プロは出ないという選択肢はもうなくなったでしょう。 このことで利己主義的な各球団がちょっとはまとまるかな?なんて甘い期待も。 野球、しっかりせんとホントやばいですよ。サッカーに食われまっせ・・。 もう手遅れ? ちなみに私は「夢をありがとう」「感動をありがとう」という言葉が嫌いです。 選手としては我々の夢や感動のことなどきっと優先順位で言うと40位くらいでしょう。 もちろん、期待に応えたいという思いは強いでしょうけど、「夢や感動を与えたい」とまでは思ってないはず。 それなのにそんなこと言われたら、気持ち悪くないですか? 私だったら半笑いで誤魔化すくらいしかリアクション思いつきません。 見てる方は勝手に感動して勝手に夢をもらえばいいんです。 「感動した」だの「夢をもらった」というのは個人の感想として述べるべきで選手にかけるべきじゃないと思うんです。 感謝の押し売りはちょっとね・・・。 結果に納得してない選手に対して言う場合などは気持ち悪いではすみません。 下手したらその選手を愚弄する事にもなりかねませんよ。 「すごい!」「おめでとう!」「残念だったね」でいいんじゃないですか。 変に良い話にしなくても。 本当は自分の人生で感動を味わえればそれが一番なんでしょうけど・・・。 日常にはない非日常をスポーツに求めるのは当然ですよ。 それで高揚感を味わいたいというのは一つの正しい見方です。 気持ちは分かりますよ。分かりますけどね。 感動そのものが目的になってしまうのはいかがなもんでしょうか。 結果としての感動なのに、既に最初から目的化してるような。 感動をありがとう、なんて言ってしまうとまるで感動したくてたまらんかった人みたいじゃないですか。 「さあ、是が非でも感動してやる。さあこい感動、もっと来い、ドンと来い」というスタンスで応援している人けっこういるんじゃないでしょうか。 とにかくお祭り騒ぎがしたいだけの応援団なんかには多そうです。 「感動ジャンキーになって感動をあさらずに、自分のことで感動できるように頑張ろうぜ」と思ってしまいます。(それは自分も少し含まれます。) 実はつい最近ある漫画を読んだんですけど、以前自分が書いた日記と少し似ているところがありました。 でも、その「似てる部分」は普遍のテーマなんで当たり前だなと納得しています。 (「俺の潜在的無意識をテレパシーで読み取ってパクった」などという電波なことは申しません。) 他の人もきっと同じスタートラインから書いてることもありえます、というかきっとそういう人は複数いるはずです。 で、そこからどこまで深く、遠くに到達できるかが問題なんですよね。 もちろんその漫画の方がより緻密に考え抜かれていますが。 今日はなんかアレだな・・・。他人の日記に異議があってもそれを引用して書かねば意味が無い場合、けっこうストレスが溜まります。 コメントつければいいんでしょうけど、いつも迷ってる間に「まあ、そこまでして言うほどのことじゃないなあ」とやめてしまいます。 それ以外の場合は自分の日記の中で反論してます。本人も第三者も気付いてないでしょうし、そもそも本人が読むかどうか不明ですけどね。 ということはよくここに来られる方の日記に対してではないということです。 もし、知ってる人の日記に「それはちゃうんちゃう?」というのがあったら悩むだろうなあ。 ご協力お願いします。 あとお手すきでしたら上の三つもポチッと押してやってください。 原作を読もう お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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