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カテゴリ:思考遊戯
前置き:普段はこんなノリではないのでよければ他の日記を・・・
安易な外来語の多用は鼻につく。 そこには 「どう?君、これの意味分かる?俺は分かるよ。え?分からないの?じゃあ君にはお引取り願おう」 という排他的意識が存在する場合が多いからだ。 言葉とはコミュニケーションの手段であり、自分の考えや思いを相手に伝えるという使い方が本義であると思うのだが、反対の使い方をされることがある。 つまり難解な言葉で分かる人と分からない人を区別し、優劣をつけていい気になろうとしたり、権威を身に纏おうとする使い方だ。 これは非常に嫌味である。 注釈をつけているのならまだいい。 どうしてもその言葉を使わないといけない必然性がある場合もまあいいだろう。 私が昔読んだ本の序文にこんな文句があった。 「この本が学習の際のメルクマールになれば幸いである」 アホかと。 普通に指標と言えよと。 序文でいきなり辞書使わすなと。 こんなことを言えば 「それを知らない君が無知なだけだ」 と著者は言うのだろう。 確かにこの著者がここで不必要にドイツ語を使ってくれたお陰で、私の語彙は一つ増えた。 しかし、そこには新しい知識を得た喜びはなかったように思う。 例えるなら無理やり首根っこ掴まれて「仲間に入れよ」と言われた感じだろうか。 私はメルクマールという言葉を普通に使う人たちの輪の中に足を踏み入れたわけであるが、お仕着せがましさと傲慢さからは共感や友愛は生まれず反感だけが残った。 専門書だから多少の難解な語句は我慢しなさいというのは分かる。 だが、必然性のない横文字にまでつき合わされるのはまっぴらごめんだ。(しかも序文で) メルクマールは一般常識に照らし合わせた場合に、知っていて当たり前の語句なのか。 本当にそこで使う必然性があったのか。 (文学作品なら語感を重視したというのもアリか) たとえ故意でなくとも、これらに考えが及ぶ事すらないのであれば少し驕っているのではないか。 無知な人間のヒガミだと一蹴されそうだが、そう思った人こそ、そこで一歩とどまって顧みて欲しい。 なんてことを言いながら自分も言葉でハッタリをかまそうとしたことはある。 もしかしてメルクマールは一般常識的な言葉なのかもしれないと不安になってきた。 こういう不安を与える事は狙った主効果の一つと言えるだろう。 自意識やプライドをも利用して、その言葉遣いを強引に了承させる。 御伽噺に出てきた「馬鹿には見えない服」と同じ理屈だ。 もちろん、悪意で用いた場合の話だが。 もしメルクマールが常識だという意見が多いのなら、本当に反省しようと思う。 人気ブログランキング。 気が向いたら押してやってください。 あとお手すきでしたら上の二つもポチッと押してやってください。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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