最近読んだ論文&今後の方向性は? その十 AT番分類に関する補足&『通観』
前回翻訳した時は意味不明だったので省略したのですが、解説中に〔D735〕とか〔T510〕のような記号が幾つか入っています。これはトンプソンの『Motif-index of folk-literature : a classification of narrative elements in folktales, ballads, myths, fables, mediaeval romances, exempla, fabliaux, jest-books, and local legends.』に対応するもののようです。例えば〔T510〕。「T」は「Sex」という大分類で、〔T500〕から〔T599〕までは「Conception and birth」-妊娠と誕生です。〔T510〕は「T510. Miraculous conception」-奇跡的な妊娠ということになります。これは『日本昔話通観』に日本のものとの対応表が載っているのですが、あくまでも日本にあるモチーフしか載ってません。そういうのは中国の研究書も同じですね。『Motif-index of folk-literature』、ネットで捜してみたらなんとテキスト化されて公開されてました。「これはすごい!もしかすると口承文芸関係の基礎資料とか結構あるのか!」と喜び勇んで上の階層に行ってみたところ、もう読めない。・・・ロシア語?でしょうか。「.ru」ですので。ロシアはプロップもいますし、口承文芸についてはやはり伝統があるのでしょうね。できればATもテキスト化して欲しい。もう一度、ATUの使い方範例がないか確認はしてみたのですが、良くわかりませんでした。独学の辛いところか?ATを使っての研究は『The types of the folktale.』を通っていることが前提のようです。しかしこれ出版された1928年と1962年。母校にも蔵書がないのですが。まあ国会図書館行けばあると思いますが。○○○○○ATを調べるために『通観』を久しぶりに開きました。昔話は研究の埒外なので大学時代もあまり使ったことがなかったのですが、非常に詳しい。蛇婿入りとか九つの型に分類されていました。205 蛇婿入りA 針糸型B 豆入り型C 立ち聞き型D 嫁入り型E 姥皮型F 鷲の卵型G 蟹報恩型H 娘変身型I 契約型苧環型はA、水乞い型はDに当たりますが、他の型と複合する可能性もあります。それにしても昔使っていたときは紀がついていませんでしたが、それぞれの型に対する解説が結構有益な気がします。分布地域は偏っているか?伝説と結びついている事例なども抑えてあります。やっぱり日本の昔話研究ではこちらのほうが役に立つかもしれません。でもそれが故にAT分類を使う必然性がなくて紹介が遅れているのだと思います。外国から入ってきたものを応用し、自前でいいモノを作りすぎてしまい、国際的に規格外になる、というパターンはここでも同じだったようです。そしてATとの対応ですが、205A・B・C = AT411205D = AT312A205E = AT312A・AT510205F = AT312A・AT411205G = AT312A205H = AT552・AT552A 参照タイプ AT433C205I = ナシとなっています。ってあれ?AT433系は一つだけ?しかも参照タイプ?だましたな、『必携』!とか言いつつ、AT411「The King and the Lamia」を見てみると、王が見初めた可愛い女の子が実は蛇だったという蛇女房になってます。でも「配偶者が次第に不健康になる」「正体を暴き殺す」という点では確かに同じかも。Fakirが王に対処法を教えるというくだりがあるのですが、Fakirというのはイスラム・ヒンデゥーの苦行僧らしいので中東辺りの話なのかもしれません。AT312Aは異類に連れ去られた娘を救出する話のようです。ここコピーがないので『故事集成』によると、ですが。分類というのも結局のところ研究者の主観によるものです。「蛇の夫と人間の妻」という点を重く見ればAT433に分類せざるをえませんが、「異類の配偶者によって病に陥り、相手を殺す」という内容を重視すればAT411になります。ここには「話型」という発想の問題点自体が存在しているとも言えるでしょうね。話型による分類で研究の範囲を決めると楽にはなりますが、矛盾が生じることにもなります。今、私が追っている蛇婿入りもそうです。「苧環型」に限定してみれば日本はイ族と同じく蛇との婚姻によって英雄や氏族の始祖が生まれます。つまり蛇に対する信仰が残っている。しかし「水乞い型」では蛇は退治される例がほとんどと言われます。矛盾とはこういうものです。これを「時代の変遷による神々の零落」によると説明したのは柳田國男ですが、まあ一つの説明としてはありでしょう。私も最近この説明に対して「個別の事例に関しては有効性がないが、大局的な『自然観の変遷』という意味ではありえる」と思うようになりました。まあこれも前提にしてしまうと共産主義的な社会発展論に似通ってしまうので危険ですがね。そのようなことを考えると、レヴィ=ストロースも言っているそうですが、やっぱり神話や伝説のように「真実」を語ろうとする物語のほうが「現実に接点を持とうとする」という意味でやりやすいということになるんですよね。でも、昔話研究の蓄積はやはり活用すべき。日本でもこちらの研究のほうが体系的に進められている気がしますしね。ま、結論としてはそんなところでしょうか?