2006/01/05(木)12:43
ほーるど・おん(3)第一章その3
「あー美味しかった」
両手を後ろについて、「ドルチェ」まで食べ尽くした彼女は満足そうに感想を述べた。
「それはどうも。片付けは手伝ってよね」
「もっちろん。それはあたしの得意だもんね」
料理自体はそう得意ではないのだ、と言う。いつもはバイト先で何かと食べてくるのだと。例えばコンビニの弁当、例えばファミレスのまかない飯。
確かに彼女の部屋のキッチンには、そう使われた跡は無い。コンロにしたところで、二口コンロが入るスペースがあるくせに、一口のものを入れているだけだ。
お茶やコーヒーはそれでもよく淹れるらしく、小さなボックスの中には、缶やらシュガーポットなどが行儀良く並べられていた。
ただ本人に言わせると、そう言った雑貨は、格別に店に行って高いものを買ってくる訳ではない。砂糖とクリーミーパウダーと茶の葉っぱが同じ金属の蓋つきの小瓶に入っているのだが、それなどリサイクルショップで、100円だった同じものがちょうど三つあったのだという。確かに少し外側のふたはさびているが、中の蓋は綺麗なものだし、逆にそのさびがいい感じを出していたりする。
確かゴミ箱もそういう経緯で買ったのだ、と聞いてもいる。普通の雑貨屋だったら千円くらいしそうなブリキの缶が、300円だった、と言っていた。
彼女の部屋を見渡すと、そんなものばかりだ。安く買ったものや、時には粗大ゴミの日に拾った棚などもある。だが散漫な印象は覚えない。よく見ると、「そんなもの」としても、彼女の確固たる趣味というものがあるらしい。拾った棚はペンキ塗りなどしてあったりもする。…そういう日には、西側の彼女の部屋からペンキの臭いが漂ってくるので困ったものだが。それでも白くなった棚は、上手く使い込んだように塗られていた。こういうのもテクニックというのだろうか。今度聞いてみよう。
そう、正直、私がキッチンのワゴンや玄関にタイルを貼ったりするのは、彼女の影響と言ってもいい。
入ったばかりの頃、殺風景だったこの部屋を、どうしたものかと思ったものだ。
実家の自分の部屋は、決して広くなかった。だから、その三倍近い広さの部屋が手に入った時、何処から手をつけていいものか判らなかったのだ。
ところが、だ。
サラダの部屋に通うようになって、私はそのたびに首を傾げた。来るたびに部屋はその表情を変えていた。
本当にまだ出会ったばかりの頃は、カーテンも無かった様な気がするのに、その翌週には、薄手だが、柔らかな色のカーテンが入っていたし、その翌週には、壁全面に生成の布が張り巡らされていた。こうすれば壁に色々飾れるじゃない、と彼女はその時言っていた。
賃貸マンションの悲しいところは、壁に穴など開けられないところだった。私はそれを知った時、壁が飾れないのか、と少しばかりがっかりしたのだが、彼女の部屋の壁を見たとき、なるほどと思ったものだ。で、私は布は貼らなかったが、代わりに大きなビンナップ・ボードを作ることにした。
一度「無ければ作ればいいじゃない」という発想に目覚めると人間は怖い。ああこれができるあれができる、と部屋のあちこちに目が行ってしまう。
そして引っ越してから一年近く経った今、私の部屋も彼女の部屋も、それぞれに思い思いの形を作っていた。
鼻歌混じりでシンクの前に立つ彼女は、ワゴンの上に洗った食器を一時的に置いている。タイル張りの利点は、水にも熱にも強い、ということだ。
しかしその鼻歌が。
「…あんたいつその曲覚えたのよ」
「こないだー」
あっさりと彼女は答える。
「だってさー、覚えやすいサビだったしー、ボーカルの声が結構あたし好みだったしー」
「あんたがそんな好みしてたなんて、あたしは知らなかったけどね」
「えーっ? そぉ? また連れてってね、おにーさんのバンド」
背中を向けながら、そんなことを彼女は言う。
「何って言ったっけ? えーと、リーガー?」
「RINGER。鐘鳴らし」
へえ、と彼女は答える。こちらを向く気配はない。
昨日ではなく、その前の土曜日、ライヴハウスに彼女を連れて行った。私は滅多に行かないのだが、兄貴からチケットを押しつけられていたのだから仕方がない。
兄貴はRINGERというバンドでギターを弾いている。いや、自分がギターを弾くためのバンドを彼は作った、という方が正しいかもしれない。
中学高校と音楽にはまってはいたが、ここまで行くとはさすがに私は思っていなかった。何せ高校卒業と同時に、家を飛び出したのだ。
それから約四年、行方が知れなかった。当初は怒って焦った両親も、私が短大を卒業したあたりには、既に何も言わなくなっていた。
仕方ない、と思ったのかもしれない。
しかし私には仕方なくなんてなかった。だから東京に出たらすぐに彼を捜した。
音楽を、バンドをするために家を飛び出した訳だから、探す方向は限られてくる。彼が聞いていた音楽から、方向性は何となく判っていた。そこからだんだんと捜索の輪を縮めていったのだ。伊達に高校時代、学年で毎度ベスト5の成績を取っていた訳ではない。短大に行くと言ったら担任は嘆いたものだ。
そしてある春の日、ライヴハウスで突き止めた彼の部屋を訪ねた。驚いたことに、私の今のこの部屋とそう遠くなかった。
私がこの部屋を選んだのは、駅からそう遠くない距離と、家賃と広さの関係、それに日当たりだった。彼の部屋は、私より、サラダの部屋より小さい。1Kは1Kなのだが、マンションではなく、アパートの1Kなのだ。鉄筋ではなく鉄骨なのだ。隣の部屋の音が露骨に響いてくるような、気を付けないと、扉の木の端で棘をさしてしまうとか、開けたら部屋が丸見え、とか、六畳にそのままキッチンがくっついているような、そんな部屋だった。
さすがに彼は驚いた。もっとも私も驚いた。
私の記憶の中の彼も髪は長かったが、少なくとも腰まであるような男ではなかったはずだ。しかも金髪だ。悪趣味だ。
もう少し何とかしようがないのか、と思ったが、子供の頃から彼が私のいうことに本当の意味で耳を貸したことなんて無いので、言わなかった。代わりに言ったのは、こんな言葉だった。
「何とかまだ生きてるじゃない」
私の本音だった。
死んでいて欲しい、と思ったことがある訳ではないが、ロクでもない生活をしているだろう、とは思っていた。たぶんそうしていて欲しい、と思っていた。
「今のヴォーカルは確か、ハコザキ君って言ったかな」
「ハコダテ君?」
「ハコザキ君。どういう耳をしてるんだあんた」
「彼女居るのかなあ?」
「何よそれ」
その時ようやく彼女はくるりとこちらを向いた。皿とふきんがそれぞれ手にある。その皿とふきんを胸の前で抱えて、目線は天井を向く。
「だって結構恰好よかったしー。声いい男って、あたし好きだよ」
「残念でした。ハコザキ君には彼女が居ます」
私はへへへ、と笑って彼女に答える。本当に残念でした。この女は惚れっぽい。そしてそのたびにちゃんとアタックして、…勝率は30パーセントだという。