炬燵蜜柑倶楽部。

2006/01/26(木)21:22

ほーるど・おん(23)第五章その3

NK関係(202)

 一ヶ月くらい、自分が何をやっていたのか、具体的な記憶がない。  無論それと判らないような生活はしている。毎朝きちんと起きて、身なりを整え、会社へ行き、仕事をして帰ってくる。そして帰ってきても、そこに人の気配は無い。  元に戻っただけだ。そう自分に言い聞かせる。  ずっとそうしてきたじゃないか。  キッチンで、のろのろと食事を作る。時には食べてくる。時には出来合いを買ってきてレンジで温めるだけ。それでも食事を抜くことはないし、無理する夜更かしもせずにベッドに入る。もう季節も季節だから、寒いということはないのだけど。  寒いはずはないのだけど。  そんなことをぐだぐだと考えながらも、身体はそれとは無関係に動いている。会社で電話を取れば、普段よりオクターブ声が高くなるし、作り笑顔だってできる。年下のOLちゃんとお弁当を食べる時には、世間話や前日のTVの内容で笑い合うこともできる。  その一方で、それを無言で冷静に見ている私が居た。どうして私は動いているんだろう。ものを食べているんだろう。話しているんだろう。仕事ができるんだろう。―――笑っているんだろう。  一ヶ月くらい、そんな状態が続いた。自分が何を話したのか、何をしていたのか、具体的に思い出せ、と言われても、うまくいかないくらいに。  いや、その時でも、問われれば答えられるのだ。ただ今こうやって自分自身に語って自分にとって、それはまるで、自分ではない誰かのしていることか、遠い何処かの世界のようなことに感じていたのだ。  身体と気持ちが、ずれていた。  それがようやく合ったのは、ゴールデンウイークが終わる頃だった。  実家方面にも今回は行かなかった。サラダが時々遊びに来たが、何かいつも首をひねっていたような気がする。 「ねえミサキさん、もう初夏なのよ」  初夏。  サラダに言われてようやく気付いたのだが、部屋の中が荒れていた。初夏、という言葉に、窓の外を見たら、外の木々が思いっきり緑のもしゃもしゃになっていた。あれ、といきなり焦点があったような気がした。 「いい加減模様替えしたほうが良くない?」  彼女は夏仕様に現在変更中なのだ、と言う。そして手にしていたコンビニの袋には、新発売らしいゼリーが数種類入っていた。  焦点が合った頭と目で自分の部屋を見渡したら、確かにひどかった。TVにもコンポにもほこりが積もっていた。カーテンは冬仕様の厚手のものだったし、いつまで私は毛布を何枚も出しているんだろう。  ゴミはちゃんと捨ててはいたようだが、キッチンのシンクのすみにはぬるぬるとしたものがついたり、ステンレスが曇ったりしている。  何でこれで平気でいたのか、よく判らない。 「…確かにひどいわ」 「でしょ? 何度も言ったのに、ミサキさんずっと生返事で」 「そ…うだった?」 「そーよ」  サラダは大きくうなづいた。 「…掃除…しなくちゃ。うん。今からしよう」 「うん。じゃあ今日は終わったら、夕ご飯ごちそうしてね」 「え?」 「一ヶ月もミサキさんのごはん食べてないのよー。あたし」 「…ああ…でもあんた、彼氏は?」 「だーかーらー、言わなかった? 一番最近のは、先週別れたって」 「…忘れてた」 「まーったくもぉ。えーと、冷蔵庫もひどいから、買い物行くよね?」  慌てて開けてみると、確かにひどかった。 「一緒に行こうよ。あたしリクエストしていい?」  無論そこで断れる訳が無かった。 「細いのがいいな」 とサラダはパスタ売場で言った。 「太いのは嫌い?」 「嫌いじゃあないわよ。だけど今日食べたいのはスープスパ系だから…」  そう言いながら、7分ゆでの1.6mmのスパゲティを彼女は手にした。 「トマトにするべきか、クリーム系にすべきか」  独り言を言いながら、そのまま彼女は生鮮売場へ行く。ミックスのシーフードを手にすると、ざらざらと振りながら私のバスケットに放り込んだ。 「トマトにしよう。ホールトマト缶も買ってね」  私は黙って肩をすくめた。そう言えばエキストラバージンのオリーブ油も切れていた。記憶には無いのだが、使うことはしていたらしい。ただ切れたからと言って、補充はしなかったようだ。オリーブ油が無ければ、サラダ油で代用、なんてことをしてたのかもしれない。 「次はこっちー」  言いながら彼女は手を振った。周囲の視線が彼女に向く。公衆の面前だって言うのに。

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