2009/08/10(月)22:19
うつほに吹く風 蔵開下巻(25)
その頃の一条殿には何とも言えない空気が漂っていた。
女三宮や中の君の殿移りの際には、兼雅が車をぴったりつけさせてそっと連れ出したおかげで、その当日には他の女性達も気付かなかった。
だが翌日からはもう大っぴらに女三宮や中の君の物を運び出すやら、部屋の掃除をするやら。残っていた女性達はそれを見て愕然としたのだ。
彼女達が残っていればこそ、兼雅が通う可能性もあり、そのついでに自分達も… という期待があった。だがこの二人が居なくなってしまっては。
「ああもう駄目だわ」
一人はそう言って嘆く。
「あの方々がいらしたからこそ、それでもここに住めたのに。もう何もかも駄目だわ。一体どうしたらいいの」
また一人、また一人、と嘆きが止まらない。そして嘆きは噂となってそれぞれの縁者へと伝わって行く。
真言院の律師は、父の妹のために家を購入し「引っ越していらっしゃい」と招いた。
彼女はそれでもなかなか思い切れず、兼雅の出方を見ようと思って一条にしばらく留まっていた。
だが皇女や、宮の縁につながる人々は迎えても、自分達はもう無理だろう、とやがて彼女も気付いた。
彼女から同意の文を受け取ると、ある夜、律師は自ら車を出して迎えに行った。少ない身内である。できるだけ幸せになってもらいたい、と彼は思うのだった。
北の対に住んでいたのは正頼の大殿の上の妹に当たるひとだった。后の宮の御匣殿の異腹の妹でもある彼女は、仕えているうちに兼雅と知り合い、やがて引き取られ世話をされるようになっていた。
顧みられなくなった彼女に、きょうだい達は多少の非難めいた言葉を投げた。
「だから、そんな大っぴらな仲にならずとも良かったじゃないですか」
それでも、別納を家にして移し、世話をすることは忘れない辺りが、やはりきょうだいであろう。
西の対に居た梅壺の更衣は、実家である宰相の中将の私邸に引き取られていった。
西の一の対に居たのは、皇女腹の宰相中将だったひとの娘だった。彼女には兄が居たので、そこに引き取られて行った。
仲頼の妹は仲忠が、二条の院のささやかな家に「しばらくの間」と言って住まわせることにした。
その様に女達が立ち去った後の一条殿は、ただ女三宮の家司達が集まり、管理のために家族と住むばかりだった。
やがて花盛りの頃、兼雅は仲忠を一条院に誘った。
「一条は人の気配も無いだろうけど、女達がどんな風に住んでいたのか、その跡を見に行かないかい?」
仲忠も気にはなっていたので、あっさりとうなづいた。
まず北の御殿へと入ると、中の君が居た場所に彼女の手でこう書かれていた。
「―――夫が通わなくなり、自分も去ろうとする宿なので、やはり名残惜しく涙を流すことよ」
次にに西の対の、梅壺の更衣の居た場所へ行くと、柱に歌が書き付けられている。
「―――身近な雲井―――宮中に落ち着いて奉仕すべきだったのに、風に吹かれる塵の様に惑った私は何という浅はかな女だろう」
彼女は院に仕えていたところを兼雅が無理矢理奪ってきた様なものだった。
そんな若い、浅はかだった頃の思い出を兼雅はしみじみを思い出す。
そしてまた同じ西の一の対を見ると、今度は宰相の君の手でこう書かれている。
「―――この一条殿に久しい間夫を待って待ちくたびれて去ろうとするのに、その折りにすら訪ねても来ないのだろうか」
さすがに兼雅も女達の嘆きの声に「ああ可哀想に、一体皆何処へ行ってしまったのだ。どうにかしてこの返歌をしてやりたい」と思う。
次に東の二の対に入ってみると、やはり柱にこんな歌があった。
「―――来ない人を待ちわびて(ここを去って行く)私が居なかったら、籬の竹よ、お前は誰を払うのだろう?」
同じ東の一の対にも柱に歌があった。仲頼の妹である。
「―――(ここに居ればこそそれでも)訪れて姿を見せた宿だけら、またいつかはと頼みになっってしまったけど、私自身さえ知らない宿へ行ってしまったら、どんなに心細いことだろう」
兼雅はふとつぶやく。
「これを書いたひとは一体何処に行ったのかな。母宮の元にはきっと居ないだろうに」
するとそれを聞きつけた仲忠がすかさず答える。
「僕が二条の院に移しました。あそこもそのうたち増築されるはずだから、そこで女一宮が淋しくならない様に、話し相手にでもならないかと思ったので」
「まだ若くて頼りない境遇のひとだから、色々困ることもあるだろうに」
兄は出家してしまっている。母宮の元にも居ない。そんな不安定な境遇を兼雅は心配する。
「大丈夫です。僕が色々用意しました。友人の妹ですし、そのうち、我が家にとっても必要なひとになってもらうつもりですから、それ相応に」
そうか、と兼雅はしみじみとうなづく。そしてゆっくりと辺りを巡り歩く。
「昔は女達がそれぞれに我も我もと様々に庭の花など凝らして住んでいたものを。今は花だけだな」
眺めているにたまらなくなった兼雅の目には涙がにじんでくる。
「―――心ない花でさえ昔に変わらず美しい色に咲き出たのに、私を待っていると思った人達は皆居なくなってしまった」
すると仲忠がこう返す。
「―――長年の間父君を待っていた女達をも遂に去らせてしまった程の宿ですから、春に咲く梅も不安に思うことでしょう」
さりげなく母のことを匂わせる。尚侍に対し、そんな仕打ちをこの父がする訳は無い。判ってはいるが、この光景を見た仲忠としては、やはり一本釘を刺しておきたい。
「お前、こんな時にもきついよ」
涙目のまま、兼雅は息子に向かって言う。
「仕方ないでしょう。自業自得です。皆それぞれの人生をこれからは歩んで行くんですから。父上もさあ」
「さあ、何だい?」
「とりあえずは修理するところとか、指図してくださいよ。持ち主のお役目でしょう?」
全くきつい息子だ、と兼雅は思う。それでも彼は最後にはきちんとその「役目」を果たしていった。