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カテゴリ:思索
「いいえ、兄さん、あなたは何度か自分自身に、犯人は俺だといったはずです。」 アリョーシャ 『カラマーゾフの兄弟』 心に去来する「犯行」については、僕にとってもかなり昔からテーマだった。無意識に訪れるとめどない感情で、理性で制御できる代物ではない。現実の行為と心の行為に果たして差はあるのか?といったテーマだった。 本当は、このテーマ、もっと丁寧に丁寧に扱っていきたい珠玉のテーマだった。 でも、実際に僕の身近な体験の中に親しい友人が「人を殺してしまう」という境遇が訪れることによって、これはもう「寓話」ではなくなってしまった。 ドストエフスキーを僕は「小説としては読めなくなって」しまった。 もし仮に神様がいたとして、そのものがすべてを見抜く力があるとして、人々は彼を目の前に「私はあなたの忠実なる僕です」といったところで、それが嘘か誠かはすぐにばれてしまうだろう… であるが故に、カインとアベルの物語でさえ、カインが神にアベルの居場所を尋ねられた際に、傲慢さをにじませながら、「私は弟の番人でしょうか?」と返す一言の中に、後ろめたい罪を見抜かれているのと同じだと想う。 そこで、僕にとっては、神という存在は観念としてではなく、現実に遭遇したとしたらどういうことになるだろか…というのが専ら関心のあるテーマとなっていった。 神かいるのかいないのか…については、その謎を巡って古来より多くの宗教的な人が問いかけているテーマではあったけれど、僕の住む時代(つまり今現在)、この国の状況からして、一般的には「いっちゃっていない限り」普通「神を見た」という人は居なかった。 そしてそのことは、それほど不思議なことではなく、古来様々な国で「見た」という人でさえ、それは幻か寓話にしか過ぎないことなんだろうな…という、ちょっとばかしロマンが消えるようなリアリティを感じていた。 それはサンタの叔父さんが実際には居ないことを知りながらクリスマスを向かえた心境に似ている。 現実に「あの人は神の化身だ…」と口にする人を見るまでは、僕はこのテーマに関しては、寓話の世界でしかなかった。 ところが実際には、僕はこうした人たちと出会ってしまう。 中でもオウムの人たちは、最も真剣にその事を唱えていた。 実際には見たことも出会ったこともない、イエス・キリストの存在を、イマジネーションによって補完につぐ補完をした上での信仰をせつせつと語る人たちに比べて、彼らは、リアリティにおいて勝っていた。 「あの人は…別だ。本当に、何もかも見抜かれる…」 「僕は、本当は畏れているんだ。でも畏れているからこそ、信じているんだ。」 こうした言説を聞きながら、その人物に関して、実際にはどんな人物であろうか…は気になるものだ。 僕は実際に接する機会があると、自分でも積極的にその「神」に語りかけていた。 彼と話を交わした後、大抵は、他の信者が近寄ってきて、その説法における質疑応答について感想を述べ合った。 そして、あからさまに羨望のまなざしだった。 神とは、語らいあう事だけで祝福であり、幸せなことだった。 彼らは口々に、僕が大胆に質疑応答することを、羨ましがり、褒めちぎっていた。 とうの本人である僕は、個人的に彼に見抜かれている…という感覚は残念ながら起きなかった。 そのかわり、感じた感覚は、この人物は世の中の事をものすごく見抜いている…という感覚だった。 恐れ多くも救済者であるならば、大きなスケールで物事を見るはずだ…という僕の評価は間違っていなかった。 しかし、その示された最終結論に対しては、全身全霊で、彼に反駁する以外になさそうだ。 何度も読んでいると、イワンは実際には「無神論者」ではなく、彼こそ神の愛を希求している魂はいないのだということがわかってくる。 その時、彼の毒気のある言説の多くが、その彼の心底にある神への求愛の裏返しであることを悟るのだ。 その時、どうしようもない愛おしさが現れる。 この感覚は、ドストエフスキー・ファンに共感して、一体の感覚を生み出していると想う。 更に、スメルジャコフに至っては、まさに劇的といっていい。 最初に読み始めた頃、若かった頃にはおよそ馴染めないキャラであったスメルジャコフの深い悲哀に気づかされたとき、最後には愛おしくて愛さずにはおれない存在となってしまった時、僕は、この小説を書き上げたドストエフスキーの真意をようやく飲み込めてきたからだ。確かに小説と言う次元ではあるのだけれど、たぶんにそこには言葉のテクニックがあるのだけれど、それでも彼のこの誘導に乗せられていることに気づきながらも、僕はそれを認めてしまう。 また、この小説を愛せる人は、僕の自伝本で出てくるアーナンダの存在についても、一般に言われている評価とは違った見方をしてくれていると想う。(ありがとう…)まさに僕にとって、師と呼ぶにふさわしいこの人物との出会いは、今生の核「コア」と言ってもいいほどで、全てを犠牲にしてもなお表現するに値する人物であったと想うのだ。そう尾崎豊にすごく似たやつだった。 僕がドストエフスキーに度肝を抜かれるのは、その「書かれる事のなかった第二部」の存在と、その構想だ。 第一部で、微塵もない優しさを振りまく、主人公アリョーシャを、彼(ドストエフスキー)は、皇帝暗殺の首謀者にして革命家として育て上げ、処刑台にあがらせる物語を想定していたからだ。 その戦慄すべき物語は、未完であるどころか、とうとう書かれる事がなかった幻の物語であり、ドストエフスキー・ファンにとっては聖域に近い神話的物語なのだけれども、僕は、アリョーシャを見たよ…そのアリョーシャのなれの果てを… 彼、アーナンダこそ、そのアリョーシャの未来の姿なんだ。 僕はその幻の物語を読んでしまった気がする。 そして第一部の物語よりも、遥かにスケールの大きな問題を突きつけられている気がする。 一度は無期懲役を勝ち取りながら二審で死刑を宣告される彼の境遇は、絶句する以外にない苦しみだろう… それでも、まだこの世界で彼は息をしている… 彼の回心の軌跡こそ、この世界の宝となりえるものではないだろうか… JS Bach Chorales,Passacaglia Eili ... お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2012年03月25日 01時38分53秒
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