700916 ランダム
 ホーム | 日記 | プロフィール 【フォローする】 【ログイン】

【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! --/--
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
2010年07月19日
XML
カテゴリ:カテゴリ未分類
大刀洗
        上の漢詩案内板は作ったものであり実在の写真ではありません。
   詩文説明
私は此処、福岡県三井郡大刀洗の菊池武光公の前に立ち銅像を仰ぎ見ている。それは堂々と気高く又、凛々しい勇士姿である。正平14年、征西将軍懐良親王を報じて南朝を支える菊池武光公は少弐頼尚(足利幕府軍)を一命を賭して大保原の戦い(筑後川の戦いともいう・日本三大合戦の一)で破った。その事績と忠誠心の思いは巡って感激の余り涙がこみ上げて止まらない。小川で血刀を洗い刀を拭き上げる光景が浮んできた。想えば少弐氏・大友氏が裏切り北朝方に回った相手(義絶)、と凄絶に戦って破った菊池武光こそ真の大英雄である。
大刀洗菊池武光公の銅像を仰ぐ 
大刀洗公園内の菊池武光銅像(この像は、太刀を洗い再び乗馬しようとしている勇士の姿)
この地方は大野原合戦伝承に因んだ地名多く、懐良親王が陣を置いた「宮の陣(久留米市)」。多くの将兵を葬った「千人塚・大将塚(小郡市)」。などがある。
菊池武光が太刀を洗った事から大刀洗と地名が付いた(福岡県三井郡大刀洗町)
※ 尚、川名は 「沼の川」 (のまん川と謂われていたが菊池武光が刀を洗ったことから 「大刀洗川」 と言われるようになった。また、町名届の時、届けた人が太刀の「」を忘れた事から大刀洗となった。と(地元の人から教わりました)。

大刀洗菊池武光公の銅像を仰ぐ
     大刀洗公園内にある菊池武光銅像の説明板を文字拡大したものです。

大刀洗菊池武光公の銅像を仰ぐ
                    大刀洗公園内の4風景。(橋名は陣の橋・太刀の橋)
菊池武光
菊池氏15代当主。武時の9男(10男も有る)。法名は誓厳。童名乙阿迦。通称豊田十郎。正平3年(1348)菊池一族の忽領とる。この年、親王は筑後進出を図るが失敗。翌年、足利尊氏と対立した足利直冬が九州に亡命、少弐頼尚と図り管領一色道猷と争う。道猷はこの為征西府を大宰府掌握の目的の為、高良山に移す。以後の武光は北部九州一円から日向に及び破竹の進撃を重ねる。

この間に少弐頼尚、大友氏時ら北朝方の雄も次々と武光の馬前に伏し、正平10年(1354)、一色氏は九州を脱出長門に逃れる。武光はこの後、正平14年(1359)8月、大保原の戦い(筑後川の戦い) でついに亡き父武時以来の宿敵、少弐 (北朝少弐6万に対し南朝武光4万)を破りついで夜襲をかけ大宰府を奪い懐良親王を移して11年間、南朝政権を確立した。のち、今川貞世に敗れ大宰府陥落後、征西府は筑後高良山に撤退するが、文中2年11月16日。武光は陣中にて没した。52,3歳であった。墓は菊池市正観寺。

大刀洗菊池武光公の銅像を仰ぐ
左端は大刀洗西原周辺の筑後川 (頼山陽は日田から筑後川と舟で下ってきたと漢詩に有りますのでこの辺りも通ったのだなと思い感慨に馳せながらシャッターをきりました。頼山陽の詩は次回に回します。(次2写真は菊池公園))

公園内の菊池武光碑(碑は 「菊池武光大刀洗の場」 とかかれてあります)。  次は、菊池武光銅像説明板  
右端は山隈の菊池武光が太刀を洗った場所と云われています。国道500号線で「菊池園」の前に碑が建っております。

菊池軍に敵対する少弐・大友
源頼朝が鎌倉に幕府を開いて以来九州に三人衆と呼ばれる武家があった。少弐・大友・島津の3氏である。遠い昔には朝廷は大宰府という出先機関を置いて九州を統治した。唐や高句麗の侵入に備え又貿易に便利な地であった。
頼朝は、九州諸国追捕使として天野遠影を派遣のち、中原親能と武藤資頼を鎮西守護人に任じた。親能の子能直には豊後国が与えられ大友の祖である。資頼は太宰少弐に任ぜられた。これが、少弐氏の祖である。

3ヶ国ずつ分担して統治する守護職を決め、筑前・豊前・肥前と対馬・壱岐・を武藤資頼に、豊後、筑後、肥後は大友能直に、奥3国と呼ばれる薩摩・大隅・日向を島津忠久に任じた。蒙古襲来の時北条実政が九州の探題に命じられて九州の実権を握り、少弐・大友はその下風に立ち、不平不満があったので後醍醐天皇の呼応に駆け付けた菊池武時 (武光の父) は探題に不満を抱いてる少弐・大友に博多探題館襲撃を相談、武時の檄に応じて邪魔者の探題を打倒しようと両名は即座に共鳴する。武時は博多の「息ノ浜」に着くなり、打合せ通り、少弐・大友の進撃の使者を出した。両氏は北条幕府にまだ利有りと計算し造反していた。大友への使者は斬られそうになったと息を切って寝返ったことを告げてきた。少弐への使者は帰ってこなかった。すでに探題方と密命を交わし準備されていた。これによって父武時は博多七隈で一命を落としましたが、以後菊池一族の宿敵となった。





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2010年07月20日 09時02分57秒
コメント(1) | コメントを書く



© Rakuten Group, Inc.