えのしま かんちゃざん
絵 島 菅 茶山
さんよう しょとう れっ りん な かきょう おのおの ほくじん ほこ た
山陽 の諸島 列して隣を成す 佳境 各々 北人 に誇るに堪えたり
いちじ た ち およ がた ふよう うみ へだ ぜんしん あらわ
一事 唯だ この地に及び難きは 芙蓉 海を隔てて全身 に露 す
詩文説明
瀬戸内海の島々は列をなして並んでいる、その佳き眺めは関東の人々に誇れるものだ。だが、たった一つ、この地、江の島に及ばないのは、富士山が海の向こうに、すそ野までくっきりと素晴らしい姿を見せている景色である。
江の島から見る富士山1 絵の島から見る富士山拡大 絵の島
瀬戸内の島々 広島因島 広島県竹原から望む
作者 菅 晋帥(しんすい)(1748~1827) 寛延1年~文政10年
字は礼卿、通称太仲、茶山は号。江戸後期の儒者・漢詩人。菅波氏、つめて菅という。備後神辺(広島県深安郡神辺町福山)の人。父は扶好、通称は樗平農商業を業とした。茶山は寛延元年に生まれた。京都に出て那波魯堂に朱子学を学び、その後郷里に帰り、教育に専念した。家の東北に面する黄葉山の名から塾名を黄葉夕陽村塾と名付ける、また近くに茶臼山があったので自ら茶山と号した。昌平黌の三博士(柴野栗山・尾藤二洲・古賀精里)をはじめ、大阪の中井竹山、安芸の頼春水・杏坪兄弟らとも親しく交わった。詩名最も高く高く東に寛斎あり西に茶山ありといわれた。文化元年扈従して江戸に赴き、帰って後命ぜられて『福山志』を編し、その後三たび棒を加えられて30口となり、文政6年(1823)には大目付に進み、同10年80歳の長寿を祝したが、隔膜を患い8月13日没す。その私塾は大いに栄え、頼山陽は一時その塾頭であった。
菅茶山は67歳の時鎌倉を訪ね七里ヶ浜から江の島に遊び、この時江の島の正面、相模湾を隔てて、全身を白く装った富士を望み、その気高い姿に感動して作ったものである。
(茶山は吟詠では、「チャザン」または「サザン」とまちまちに詠んでいるようですが、私は「チャザン」で教わりましたのでルビを「チャザン」にしています。尚日本史辞典(角川) ・ 日本漢詩(明治書院)では「サザン」となっています。
東京武道館での全国吟詠合吟大会出場の時、前日に箱根に泊まり、東京・浅草・鎌倉辺りを観光。江の島にも寄りまして、お土産店の並ぶ中程の弁財天で失敗しないようにと手を合わせたものでした。この時、橋の上から富士山を見たのが初めてで、やっと見る事が出来たと感動しました。