@憂我なる<J-POP&FOLK>@

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♪背中のアヴァンギャルド、振り向けば愛♪セルジュ・ゲンズブール♪ジェーン・バーキン♪
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<仏の異端児セルジュ・ゲンスブール Serge Gainsbourg>

1928年4月2日、パリに生まれる。本名”ルシアン・ギンスブルク”ロシア系ユダヤ人。
フレンチ・ポップスは、この人なくしては語れない。時代の先駆者としてのその存在の大きさと功績は計り知れない。
寝ぼけ眼に、無精ひげ。酒太りで腹もデップリと出ている。咥え煙草に、汗くさそうな風貌。パッと見は小汚い酔っ払いのオヤジ。
攻撃的で、猥褻で、ナンセンスで、屈折していて、耽美的で...ダンディで。1日に「ジタン」を4箱も吸い、アルコール中毒、ステージでも煙草と酒は必需品。


しかし、そんな彼にも美しい女性が集まってくる。ブリジット・バルドーやカトリーヌ・ドヌーブ、ジェーン・バーキン、ソフィー・マルソー、イザベル・アジャーニ、ヴァネッサ・パラディ等美女と次々と浮名を流し、伊達男の名を欲しいままにした。シンガー/コンポーザー/俳優/映画監督とマルチに才能を発揮し、酒と煙草と女を愛したフランスの異端児セルジュ・ゲンスブール。
やっぱり男はルックスではなくて才能、あるいは実力だよな!




パ・コム・レゾートル(他者と違うこと)
「私や娘たちのためにも生きていて、お願いだから煙草やお酒を控えて...」というジェーンの切実な涙の訴えにも耳をかさず、1973年5月。45歳にして最初の心臓発作に見舞われる。しかしそれでもジターヌ煙草をアタッシュケースに詰め込んで救急車に乗り込んだという。1984年3月11日には、丁Vの生番粗「セット・スュル・セット」出演中に5百フラン札を燃やして見せ、視聴者から非離が殺到。




ロリータ趣味全開!65年フランス・ギャルの「夢見るシャンソン人形」で当たってからはロリータポップスの創造者ってことになる。.....イイナイイナ!




「Je T Aime ... Moi Non Plus/ジェーン・バーキン」

当時41歳のゲンスブールと、22歳だったバーキンとの19歳もの年齢差を超えた愛のささやきをエモーショナルに歌い上げたこの曲には、まるでセックス・シーンを思わせるような2人のあえぎ声が挿入されており、そのスキャンダラスな詞と斬新で美しいメロディは世間を騒がせた。レコード会社はBBCが放送禁止処分を決定したとの報道に、シングルを回収してしまう。....ザマアミロ!
実はこの「Je T Aime ... Moi Non Plus」のレコードにはファースト・ヴァージョンのリリースがあったのです。それは、以前ゲンスブールの当時の愛人と言われBBの愛称で知られた女優ブリジット・バルドーと共に録音したものであり、このジェーン・バーキンとのデュエットはリテイクでした。他の男性と結婚していたバルドーにとって、この曲はエロティック過ぎたということでBBはレコード発売直前になって、この曲を決して世に出さぬようにとゲンズブールに懇願。幻のシングルとなった。.....アハハハハ!




Yahoo!BBこと<ブリジット・バルドー Brigitte Bardot>


TVショーへの出演をキッカケに恋に堕ちた二人の一瞬の輝きを封じ込めた68年作のCDが「ボニーとクライド」。バルドーはギュンター・ザックス・フォン・オペルと結婚している最中にセルジュ・ゲンズブールと恋仲になり、ゲンズブールに「私のために,あなたが想像できる最も美しい曲を書いて」と頼んだことにより、彼が一晩で書き上げたものです。BBの舌ったらずな歌唱や日常の声をサンプリングしたみたいな茶目っけがグー。タイトルに引用された映画の主人公同様、彼らに明日はなかった。.....Yahoo!BBさんも広末なんか使わないで素直にBrigitte Bardot使えば良いのにネ!.....ソウダソウダ!




今も昔も!当時の相関図!おまけです。虫めがねでお楽しみください。皆さんお盛んで人生楽しいでしゃろ。どなたか楽天相関図ちゅうの作ってみてください。




「Je T Aime ... Moi Non Plus」
監督 ■セルジュ・ゲンズブール
出演 ■ジェーン・バーキン■ジョー・ダレッサンドロ■ジェラール・ドパルデュー


1975年の映画「ジュ・テーム・モワ・ノン・プリュ」はゲンスブールの初監督映画。異性愛と同性愛を絡めた、ミステリアスな三角関係を描くラブロマンス。公開当時の76年には、とんでもない悪評で物議をかもしだした映画だったが、この映画を、フランソワ・トリュフォーだけは絶賛したという。
ジェーン・バーキン演じるジョニ-。洗いざらしのジーンズにランニング、白のスニーカーにショートカット、手足は長く、ガリガリでおっぱいはペチャンコ。男の子みたいなんだけど妖しい、あぶなげな魅力で見るものをひきつける。




「ジェーンは私が待ち続けていた女性だ。最初は分からなかったが、私の中に変化が芽生えてきた。私には彼女が最後の女性だ。彼女が私のもとを去ったら...。私は彼女を愛している、明言できるよ、こんなことを人に言うのは初めてなんだがね」




セルジュ・ゲンスブールがクラブのピアノ弾きだったころから、あこがれの存在だったのはボリス・ヴィアンだという。シャンソン・ジャズ・レゲエ・ロック・サンバ・マンボ・アフロ・ラテン・ポップス なんでもあり。ジャマイカで全編レコーディングしてレゲエをいち早く取り入れたり作品を発表するたびにセンセーショナルな話題を提供し既成のジャンルをものの見事に越えた活動を繰り広げたゲーンスブールは凄かった!



『ゲンスブールを歌う女たち』というCDがあります。 百花繚乱匂うが如く!セルジュ・ゲンスブール自身の曲を女性シンガーたちに歌わせた曲を集めた極上のフレンチポップス・コンピレーション・アルバムですね。

1.無造作紳士(ジェーン・バーキン)
2.手ぎれ(ジョー・ルメール)
3.ぬかるみ(ペトゥラ・クラーク)
4.プチ・パピエ(レジーヌ)
5.太陽の真下で(アンナ・カリーナ)
6.ラ・ジャヴァネーズ(ジュリエット・グレコ)
7.ブラッディ・ジャック(ジジ・ジャンメール)
8.さよならを教えて(フランソワーズ・アルディ)
9.夢見るシャンソン人形(フランス・ギャル)
10.ヘリコプター(ミレイユ・ダルク)
11.神様はハバナタバコが好き(カトリーヌ・ドヌーヴ)
12.ルル(バンブー)
13.プレヴェールに捧ぐ(クレール・ダスタ)
14.マリン・ブルーの瞳(イザベル・アジャーニ)
15.ハーレイ・ダヴィッドソン(ブリジット・バルドー)
16.虹の彼方(ジェーン・バーキン)
17.ホワイト・アンド・ブラック・ブルース(ジョエル・ウルスル)
18.レモン・インセスト(シャルロット・ゲンスブール)
19.タンデム(ヴァネッサ・パラディ)

<ジェーン・バーキン、セルジュ・ゲンスブール共演>



「ガラスの墓標」

一時期 "渋谷系" と呼ばれる若者達に絶大な人気を誇っていたゲンズブールとバーキン。伝説のカップル、ジェーン・バーキン&セルジュ・ゲンズブール共演第一作!ゲンズブールとバーキンの、私生活さながらの甘く切ない愛を描く。




壊れそうな儚げに歌う彼女のウィスパー・ヴォイスは素晴らしく官能的です。今にも壊れてしまいそうな、儚げで、か細い、吐息のような声。それが彼女のブランド・イメージとなり、ゲンスブールはこれを最大限に生かそうと彼女のために曲を次々と生み出しプロデューサー&作詞・作曲のゲンスブールの才能も惜しみなく発揮された。
この結婚生活は12年続き、常に大衆とメディアに話題を振りまいていた。60年代後半、70年代のジェーンはまさしくセルジュのプロデュースの賜物であった。この幸福な時代にジェーンは30本あまりの映画に出演する。






1974年に仏のTV番組でセルジュ・ゲンズブールとジェーン・バーキンが共演したロリータショウ!バーキンがショーガールや娼婦に扮し、悪趣味な笑いを振りまく過激な作品です。




しかし、1973年5月の最初の心臓発作以降、ジェーン・バーキンは母親みたいに献身的な看病を見せ節酒節煙を強く説き、ロリータからママへと変身してしまっていた。以後、ジェーン・バーキンの人気上昇のかげで「ムッシュ・バーキン」は酒に酔っては朝帰りし、ジェーンを殴るようになった。
1980年、ジェーン・バーキン、ケイトとシャルロットを連れてセルジュのもとを去る。しばらくして、映画監督ジャック・ドワイヨンのもとへ。
81年、”バンブー”と出会う。彼女の写真集を作ったりなどして、”バーキン”の家出から立ち直る。

1989年l月、連続5回の入院。4月、肝臓の3分の2を切除する大手術。一命を取り留める。




1991年3月2日土曜日の探夜、ヴェルヌイユ通りの自宅で死んでいるのをバンブーが発見。死因は心臓発作による。3日午前1時頃、公式発表。5・6日、パリ部外ナンテールのヴァレリアンの追悼の儀。7日、父母の眠るモンパルナス墓地に埋葬。享年63才。




91年版プチ・ラルース百科事典には、 「無頼漢で刹那的な人間像の後ろに鋭い感受性を秘めた作詞、作曲兼歌手。”ジュテーム・モワ・ノン・プリュ”」 と記されている。



<ジェーン・バーキン>
◇janebirkin.net◇


1946年12月14日英国ロンドン生まれ。
リチャード・レスター監督「ナック」で映画に進出し、
続いて映画「欲望(Blow Up)」(ミケランジェロ・アントニオーニ)に出演。
18歳で『007』のテーマ曲などで知られる作曲家ジョン・バリーと結婚したが、一子をもうけて離婚。フランスに渡り、フレンチ・ポップの雄、セルジュ・ゲンスブールと映画『スローガン』で共演し結婚する。
セルジュとの間にもうけた愛娘シャルロット・ゲンスブールと映画監督ジャック・ドワイヨンを父親に持つ末娘のルー・ドワイヨンは女優として活躍しています。



「彼女がお手本」という女性も多いかと思います。本業はもちろんのこと、ファッションやライフスタイルまでがお手本とされるカリスマ性を持った女優さんですね。ジェーンは現在、国境無き医師団のサポート・メンバーとして戦禍のサラエボを訪問し子ども達のために歌い、アムネスティの人権活動を支援するなど様々な社会活動に取り組んでもいる。





輸入DVD『Arabesque(アラベスク)』日本未発売


「東洋的なリズムはセルジュのスラブ魂、トランクやヴァイオリンを離さないジプシー的なところに強く結びついている」とジェーンは語る。

このパリでのライヴ『Arabesque』は彼女がずっと歌い続けてきたセルジュ・ゲンズブールの名曲の数々をアラブ風、アンダルシア風にアレンジして歌い直してみようというちょっとした思いつきに端を発したらしい。1999年アビニョンのフェスティバルで、アルジェリア出身のミュージシャン、ジャメル・ベニイェレスとそのオーケストラの協力を得て、ゲンスブールのエキゾチックな音楽性にさらにアラベスク、すなわちアラブ風、ジプシー風のアレンジが施されたコンサート<アラベスク・コンサート>は大成功をおさめる。やがてパリのオデオン劇場で五夜連続のコンサートが行なわれほどまでに受け入れられ、ヨーロッパ各国だけでなくアメリカやアジア、日本も回るワールド・ツアーにまで発展した。
アラベスク・バイオリンの第一人者、ジメル・ベニイェレス、クラシックとアラブ音楽を学んだピアニストのフレッド・マッジ、ペルシアからアラビアに伝わった弦楽器リュートを奏でるアメル・リアヒ・エル・マンスリ、フランス在住モロッコ人のパーカッショニスト、アジズ・ブーラルー。この四人をバックに私の敬愛する越路吹雪さんもよく歌っていた名曲「エリザ」はイーディッシュ風の嘆きの歌に変わり、中欧的なメランコリーを感じさせるまでに見事なアレンジで歌われ素晴しいです。ほか「コーヒー・カラー」、「いつわりの愛」、「シックなランジェリー」、「バビロンの妖精」などなど、セルジュの名曲の数々をアラベスクに歌われています。故ゲーンズブールの映像が映し出されジェーンの追悼のリーディング・シーンからは、二人の間には離婚後も音楽を通じての愛があった事を充分に感じられ心暖まる思いをしました。ジェーン・バーキンのあんなにも無防備でくしゃくしゃな笑顔はホント素のままの姿で、かつて愛したセルジュ・ゲンズブールの歌を歌い踊ることの喜びが溢れてて感動的でさえあります。

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ジェーン・B.....あなたは少女時代を『残酷な二度と帰れない国』 と、あるインタビューで表現していましたね。でも、年を重ねても、相変わらず少女のような素敵な笑顔、しぐさのあなたは無造作であらゆる 囚われから解放されたかのようにナチュラルで素敵です。

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CAT-O





<Cinemagraphy>

1964年 「ナック」
1966年 「カレードマン・大胆不敵」「欲望」
1968年 「ワンダーウォール」「太陽が知っている」
1969年 「カトマンズの恋人」「スローガン」「ガラスの墓標」(ともに共演:S.ゲンスブール)
1972年 「マドモアゼルa GO GO」(共演・音楽:S.ゲンスブール)
1973年 「ドンファン」(共演:B.バルドー)
1974年 「おかしなおかしな高校教師」「麗しのカトリーヌ」「まじめに愛して」「冒険喜劇大出世」
1975年 「ジュ・テーム・モワ・ノン・プリュ」(監督:S.ゲンスブール)
1976年 「スキャンダル」「仮面~死の処方箋」
1977年 「ムッシュとマドモワゼル」
1978年 「ナイル殺人事件」
1979年 「メランコリー・ベビー」(共演・音楽:S.ゲンスブール)
1980年 「放蕩娘」(監督:J.ドワイヨン)「エゴン・シーレ」
1981年 「地中海殺人事件」「孤独な果実」
1983年 「愛しのエレーヌ~ルルーとペリシエの事件簿」「地に墜ちた愛」
1984年 「ラ・ピラート」(監督:J.ドワイヨン)
1985年 「ベートーベンの甥」「マンスフィールドの追憶 孤独な果実」
1986年 「悲しみのヴァイオリン」
1987年 「ふたりだけの舞台」(監督:J.ドワイヨン)「アニエス・vによるジェーン・b」「カンフー・マスター!」(ともに共演:C.ゲンスブール)「右側に気をつけろ」
1989年 「ダディ・ノスタルジー」
1990年 「美しき諍い女」
1994年 「百一夜」
1997年 「恋するシャンソン」
1998年 「シャンヌのパリ そしてアメリカ」












1/2のマキ...その1 アングラ人形からロック・クイーンへ!カルメン・マキ



さよならだけが 人生ならば
またくる春はなんだろう
はるかなはるかな地の果てに
咲いてる野の百合何だろう



寺山修司(1935-1983)



1960年代後半から70年にかけての日本は、ベトナム反戦運動や学園紛争、そして安保闘争など、まさに熱い政治の季節の渦中にあった。このような時代背景の中で<アングラ>という言葉が流行語として生まれた。<アングラ>とはアンダーグラウンドの略で、地下運動/反体制活動/前衛運動などを意味したが、この<アングラ>というキーワードの元、多種多様な文化活動が盛んに繰り広げられた。



後の、ヒッピー文化に代表される60年代カウンター・カルチャーの象徴でもあるウッドストック・フェスティバルが開かれたのが、1969・8・15,16,17の三日間。、”愛と平和と音楽の3日間”という名目の元、出演者と観衆がひとつになって、昼夜関係なく続けられ、世界平和の祈りを音楽に託し、ともに歌い、ともに踊るという歴史的フェスティバルです。観客は30万人とも40万人とも言われ、英米からたくさんのミュージシャンがノー・ギャラで集まりました。私はこの映画の封切りを待ちに待ってて、封切り日に国鉄に乗って有楽町は日劇文化まで勇んで観に行きました。「ウッドストック」は日本に多くのロック少年、ロック少女を生み出しましたね!(^-^)ヒッピーとかフラワー・チルドレンとか...そんなムーブメントがどっと流れ込んできました。
”J”国の成立起源もこの辺にありそうです?!。



 日本のフォーク界に多大な影響を与え、日本のロックの源流ともいわれてきた幻のレーベル「URC(アングラ・レコード・クラブ)」の設立も1969年!既成のレコード会社に対してのアンチテーゼとして存在しました。また演劇では状況劇場や天井桟敷、赤テント、黒テント、早稲田小劇場などの小劇場運動があり幾多のアングラ劇団が雨後の筍のように生まれた。....私もその一員でした。そして出版でもミニコミ誌などが自由なメッセージを発信してました。またヒッピー族やフーテン族などが新宿駅東口を舞台に登場しまして、私もフーテン族でした。昔のフリーター?なんていったら殴りますよ。いま、サブカルのはずが、何時の間にかメインに格上げですか?アングラ・オヤジ、サブカル・オヤジと呼ばれてちと嬉しい気がします。



映画では1961年11月に発足した日本アート・シアター・ギルド様!が「日本映画界に、ひとつの冒険と実験が多くの期待を集めて誕生...」勅使河原宏監督「おとし穴」を皮切りに、偉大な足跡を残してくれました。
1966年(昭和41年)
「とべない沈黙」黒木和雄監督 「憂国」三島由紀夫監督
1967年(昭和42年)
「忍者武芸帳」大島渚監督 「人間蒸発」今村昌平監督
1968年(昭和43年)
ATG第1回自主製作映画「絞死刑」大島渚監督
1968年(昭和43年)
「初恋:地獄篇」羽仁進監督 「肉弾」岡本喜八監督
1969年(昭和44年)
「新宿泥棒日記」大島渚監督 「心中天網島」篠田正浩監督 「少年」大島渚監督 「薔薇の葬列」松本俊夫監督
1970年(昭和45年)
「エロス+虐殺」「えん獄エロイカ」吉田喜重監督 「無常」実相寺昭雄監督 「日本の悪霊」黒木和雄監督
1971年(昭和46年)
「書を捨てよ町へ出よう」寺山修司監督 「儀式」大島渚監督 「修羅」松本俊夫監督 「曼陀羅」実相寺昭雄監督 「告白的女優論」吉田喜重 
「あらかじめ失われた恋人たちよ」田原総一郎・清水邦夫監督
マキ出演!
.......以降は、ATGでどうぞ!



「時には母のない子のように」
(1969.02.21発売、作詞:寺山修司 作曲:田中未知 編曲:山屋清)
1969年(昭44)1月19日、全共闘系学生が封鎖する東京大学に入った約8500人の機動隊は、学生たちを排除し封鎖を解除した。重軽傷者多数、逮捕者も600人以上。「東大安田講堂事件」は、60年代末に吹き荒れた学生運動の象徴的事件として記憶されている。
「時には母のない子のように」は、安田講堂事件の約1カ月後の2月21日にリリースされた。60万枚を超えるセールスを記録し、バリケードの中で学生たちが聞く子守唄と言われた。ラジオのリクエストが殺到し、曲が流れない日はなかったほど。



『ちょうど全共闘がね、学生運動がいちばんすごい時だった。ザワザワした、良くも悪くも面白い時代だった。...その年の東大の入試がなくなったでしょ。...バリケード張って、もう学生は引き籠もっちゃって、先生はシャットアウトっていう。安田講堂が封鎖された直後のデビューだったんです。』

さてさて、そんななか、寺山修司が主宰する劇団天井桟敷から一人の歌手カルメン・マキが現われた。カルメン・マキは背中まで伸びた長い髪、破けたジーンズ、そして裸足というスタイルでデビュー曲となった「時には母のない子のように」を無表情に唄った。彼女の存在はまさに時代の鏡であり、またそのスタイルは既成の歌手へのあきらかなアンチテーゼであった。
また、「時には母のない子のように」は60年代の終わりを告げる鎮魂歌のようだった。

 

1951年 5月18日神奈川県鎌倉市生まれ。アイルランドとユダヤの血を引くアメリカ人の父と日本人の母との間に生まれる。国籍はアメリカ合衆国。本名は MAKI ANNETTE LOVELACE &本名・伊藤牧。
 『天井桟敷』の芝居にショックを受け,1968年 6月,同劇団に入団.同劇団の芝居に出演中, CBS SONY のディレクター・酒井政利にスカウトされ,1969年 2月,『時には母のない子のように』でデビュー。以後個性派シンガーとして6枚のシングル・3枚のアルバムをリリース。
『気がついたら芸能界のど真ん中にいた。』
『もうこの曲歌うの飽きちゃった!』と平気で言い放った。
1970年にロックに転向,カルメン・マキ&タイムマシーンを結成するが,すぐに解散。1971年,アルバム『カルメン・マキ&ブルース・クリエイション』をリリース。 1972年にはカルメン・マキ& OZ を結成し,日本ロック史上に残る女性ヴォーカリストとなるが, ’77年に解散。以後, ’90 年代前半に出産と育児のため一時休止したほかは,活動を続けている。



自らアングラ人形である事をもやめたマキさんは、アメリカの伝説の女性シンガー、ジャニス・ジョプリンの音楽と出会うことでロック・シンガーの道を歩むことになりました。そして1972年に<カルメン・マキ&OZ>は結成されました。とにかく<カルメン・マキ&OZ>でのマキのハイトーンのシャウトは強烈だった。彼女のヴォーカルはそれまで<日本のロック>では聴いたことのないもので、その迫力には壮絶な美しさがあり彼女の内で確実になにかが変わっていたのが切実に感じられて感動的でさえありました。
今でも思い出します、あの「私は風」を聴いた時の驚きと胸の高鳴りを!ドラマチックで美しいメロディ、心を騒がせる歌詞世界。そして何よりも詞の世界に引き込んでくれたのは、カルメン・マキの伸びやかで力強くも情感溢れるVocalでした。OZのサウンドの魅力は春日博文のHeavyなGuitar、川上茂幸の野太く唸るBass、それにからむメロディアスなキーボードを効果的に使ったドラマチックなサウンドにもあります。もちろん、アコースティックな小品やバラードも極上です。圧倒的な存在感とカリスマ性を持ったカルメンマキの歌唱自体もそうですがスピリットにおいても、彼女を超える女性Voはそれ以降出現していない!それにOZを紹介しないで日本のロックを語れないであろう。
本当にスゴい!!今の耳で聴いても驚くことうけあいです。



『 私は風 』
作詞:Maki Annette Lovelace 作曲:春日博文

あまりに悲しいことばかりで どこか遠くへ旅にでようと
ポケットに想いでつめこみ ひとり汽車にのったの

汽車の窓の外を走り抜ける 昨日までの私の苦い人生
もう二度と戻ることのない この町ともさよならね

あぁ もう涙なんか枯れてしまった明日から身軽な私
風のように自由に生きるわ ひとりぼっちも気楽なものさ

あぁ 目を閉じて心も閉じて 開いた本も閉じてしまえ
あぁ私は風私は風 終わりのない旅を続けるの

あぁ 私を抱いて気の済むように 抱いたあとであなたとはお別れよ
どうせ私は気ままな女 気ままな風よ

胸の奥深くうす紫色の 霧が流れる 誰か教えてよ 私の行く先を

見知らぬ町の 街角に立ち



『歌と子供を比べたら、絶対に子供の方が大事だし、歌にもう未練はなかったんですよ。と言うか、そうするしかない状況になってしまったということなんですよ。自分がいくら望んでも叶わないことってあるでしょ?自分の力ではどうにもできないことって。気が付いたら、ってそういう意味なんですよね。自分が望むと望まざるとにかかわらず、選ぶと選ばざるとにかかわらず、また歌うしかなかった、ということなんですよ。自分が幸せだと感じられる人生ならば、歌う必要なんかないと思ってますから。
 大人になるって素敵なことですよね。若い頃は大人になんかなりたくなかったけど、今、自分が50を過ぎて、歳をとるのも、悪くないな、なかなかいいもんじゃないか、って思う。若い頃の自分より、今の自分の方が好きですしね。日本は、大人になるってことは、あきらめること、捨てることで、大人になるとつまらなくなるっていうような風潮があるけど、私はそうは思わないなぁ。まぁ、現実に、素敵な大人が少ない、ってこともあるんでしょうけどね。だから大人の文化がない、成熟した文化が育たない、って思うんですよ。それども、あきらめないで、自分の道を歩きつづける・・・勿論、若い時よりはスピードは落ちてくるんだけど・・・とにかく、何かひとつでも目的意識を持ち続けて、やり続けて行くってことが大事なんだし、これには相当のエネルギーが要りますよね。』



『残念なことに、OZ時代からのファンの人の中には、カルメン・マキ=ハード・ロック、シャウトしてこそカルメン・マキの真骨頂がある、と思っている人がいて、『UNISON』ではもの足りなさ、を感じてしまうらしいんですよね。私としては、あれはかなりの自信作なんですけど』
『古くからの固定ファンは別として、初めて私の歌を聴いてもらう人には、カルメン・マキという名前を知らずに聴いてほしい、そして、そこで何を、どう感じたか、これが重要だと思うんです。私とリスナーとの本当の出会いは、そこから始まるような気がするんです。つまり、あらかじめ取り入れた予備知識やレッテルが、リスナーの感性を邪魔してしまうこともあるんじゃないか、って思うんですよね』





もう、30年近くも前にこういう女性ボーカルバンドがいたってこと自体が驚きでしょう!彼女はまだまだ進化し続ける真の不世出天才シンガーであり、紛れもなく本物の歌を聞かせてくれる一人です。
『Sometimes I Feel Like A Motherless Child』




『ROOTS MUSIC DVD COLLECTION VOL.4 カルメン・マキ』
カルメン・マキの「今」をぜひご覧ください!
キャリアの集大成といえるアコースティック・ライヴがDVDで発売されました。封印されていた名曲「時には母のない子のように」も初映像化されました。
ROOTS MUSIC/商品番号: DVDK-004/価格 : 2,000(税抜)


ekato
YOKO MY LOVE



CAT-O
Yahoo! auction



マルホランドさんよりマキさんのLIVE情報いただきました。

DOLPHY

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11月25日(火)
PM7:00~
ロック・ボーカリストNO.1のマキさんが、新たなバンドを結成して旅立ちました。その迫力は、圧倒的です。
カルメン・マキ(VO)&サラマンドラ
鬼怒無月(G)勝井祐二(VLN)松永孝義(B)芳垣安洋(DS)       
前売:4000当日:4500
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マルホランドさんの書き込みで~す。
肝心のカルメン・マキ・サイト


◆最近のメンバーの鬼怒無月、勝井祐二、松永孝義、芳垣安洋。この名を聞いたとき意外な気がしましたが、最近では一緒にやるのも必然かとおもいます。カルメン・マキ氏の「やる気」は野田さんからも聴いていました。CDの手売り・・プロモーションしてくれないのだったら、ライヴ会場などで自分でガンガンする気ある等。
 
あとレコード・コレクターズに「今までで一番声が出ていて鬼気迫るライヴ云々」といったコンサート評が確かあったはず。

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