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AOSHIMA 日本の歴史 長篠の合戦 1:35 鉄砲の威力を世に知らしめた戦いとして有名です。 それまでの戦は「やあやあ、我こそは○○国の××なり・・・・」などと名乗りをあげて一騎打ちを申し込む(その間武士の作法として攻撃してはいけない)というものが一般的でした(本来、現在放送されているNHKの「平清盛」では「戦」の際にそこかしこで行われていたはずですが、鬱陶しいのでカットされているのだと思います)が、この戦い(長篠の戦)以後は一変したということです。 武田勝頼が古いタイプの武将だったのは間違いないとしても、「雨の日には使えない火縄銃」など問題にしていなかったのは、当時他の武将も同じでした。 「織田信長が大量の鉄砲を手に入れている」という情報は、「勝頼」のもとにも届いていたはずで(武田は信玄が病気で亡くなる前に後継者を勝頼としていたので、いらぬ後継者争いで兵力を失ってしまっていたわけでは無く、落ちぶれていたわけでもありません。よって優れた忍者(甲賀衆)を囲っていました。)、それでも戦に望んだのは、占い師によってその日が雨になると踏んでいたからです。 どんなに強力な武器であっても「当たらなければ、どうということはない・・・・・」 ・・・・違いました「使えなければ、どうという事は無い」と考えたわけでです。 実際は天はまさに信長に味方したというのが史実です。 「信長」は桶狭間の合戦から、戦のときに天候にめぐまれていました。「天を自在に操る情け容赦のない者」ということで「第六天魔王」と呼ばれるようになったのだと思います。 長篠の戦い(ながしののたたかい)(Wikiより)は、天正3年5月21日(6月29日)、三河の国長篠城(現愛知県長篠)をめぐり、織田信長・徳川家康連合軍3万8000と武田勝頼軍1万5000との間で勃発した戦い。決戦地が設楽原(設楽ヶ原、したらがはら)および有海原(あるみ原)(『信長公記』)だったため長篠設楽原(設楽ヶ原)の戦い(ながしの したらがはら の たたかい)と記す場合もある。 通説では、当時最新兵器であった鉄砲を3000丁も用意、さらに新戦法の三段撃ちを実行した織田軍を前に、当時最強と呼ばれた武田の騎馬隊は成すすべも無く殲滅させられたとされるが、様々な論点に異論が存在する。 そもそも、この作戦は20日夜の合同軍議中での酒井忠次による発案であったが、信長に一蹴されたという。ところが、軍議を終えてすぐに信長は酒井を密かに呼びつけ、作戦の決行を命じた。武田軍の諜報を案じて、軍議ではあえて採用しなかったのが理由であるという。
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Last updated
2012.07.10 22:43:47
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