カテゴリ:ヒロ伊藤流?仏弟子修行
「人は病む。いつかは老いる。死を免れることはできない。 若さも、健康も、生きていることも、どんな意味があるというのか。 人間が生きていることは、結局何かを求めていることにほかならない。 しかし、この求めることについては、誤ったものを求めることと、 正しいものを求めることの二つがある。 誤ったものを求めることというのは、自分が老いと病と死とを免れることを 得ない者でありながら、老いず病まず死なないことを求めていることである。 正しいものを求めることというのは、この誤りをさとって、 老いと病と死とを超えた、人間の苦悩のすべてを離れた境地を求めることである。 今のわたしは、この誤ったものを求めている者にすぎない。」 (『仏教聖典』パーリ語大蔵経中部3-26聖求経より) ゴータマ・シッダールタさんが、29歳で出家する前に語った、心からの言葉が残されています。人間の苦悩の種は数え切れないほどあるけれど、究極では「老病死」という自己の生命に関わることと、「生」そのものに内在される数多の苦悩です。彼は沈思瞑想して人生を見極めようとしましたが果たせず、心を悩ます日々が続き、ついには出家の決心をすることになるのです。 人生は苦悩に満ちている。時には楽しいことがあっても「生老病死」という究極の前では、すべてが絶対的な苦悩に変わる。では、死んでしまえば問題は解決するのか。いや、そうではない。二千五百年前のインドにあって輪廻の思想は、普遍の真理のように信じられていた。出家前のゴータマさんも例外ではなく、つまり問題は死んでも解決せず、また生まれ変わってきて、苦悩の人生は続くと思っていたのです。(悟りを得てブッダとなった後のゴータマさんは、輪廻があるのかどうかに対しては無益な議論であるとして明言を避けましたが、心の中では神の存在と同様に否定的だった。) だからこそ「正しいものを求めることというのは、この誤りをさとって、老いと病と死とを超えた、人間の苦悩のすべてを離れた境地を求めること」としたのです。死んで解決するのではなく、現世においてこの身このままで、激流を越えて彼岸に至る、生死の輪廻を解脱することだと考えたのだと思います。 あなたの悩み苦しみがなくなりますように! あなたに悟りの光が現れますように! 合掌 観学院称徳 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2007年10月10日 13時59分03秒
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