カテゴリ:ヒロ伊藤流?仏弟子修行
「この世には五つの悪がある。一つには、あらゆる人から地に這う虫に至るまで、 すべてみな互いにいがみあい、強いものは弱いものを倒し、弱いものは強い者を欺き、 互いに傷つけあい、いがみあっている。 二つには、親子、兄弟、夫婦、親族など、すべて、それぞれおのれの道がなく、 守るところもない。 ただ、おのれを中心にして欲をほしいままにし、互いに欺きあい、 心と口が別々になっていて誠がない。 三つにはだれも彼もみなよこしまな思いを抱き、みだらな思いに心をこがし、 男女の間に道がなく、そのために、徒党を組んで争い戦い、常に非道を重ねている。 四つには、互いに善い行為をすることを考えず、ともに教えあって悪い行為をし、 偽り、むだ口、悪口、二枚舌を使って、互いに傷つけあっている。 ともに尊敬しあうことを知らないで、自分だけが尊い偉いものであるかのように考え、 他人を傷つけて省みるところがない。 五つには、すべてのものは怠りなまけて、善い行為をすることさえ知らず、 恩も知らず、義務も知らず、ただ欲のままに動いて、他人に迷惑をかけ、 ついには恐ろしい罪を犯すようになる。」 (『仏教聖典』96頁、無量寿経より 仏教伝道協会刊) 人間の文化文明は進化しましたが、人間の心と言葉と行いは二千年間ほとんど進化していないようです。それにしても日頃漢文で棒読みにされているお経にこんな内容が含まれているなんて、驚きですよね。お経には、よくその最後に、そのお経を読誦しなさい、写経をしなさい、多くの人に伝え広めなさい、というようなことが書いてあります。その本意は、文字と文章を目で見て読誦することで、それをまた耳で聞き、手で書いて写経することで、また目で一言一句を確認していく。理解を深めた上でまた読誦する。そうした繰り返しと、人間の感覚をいくつも働かせることにより、身に付けていくということではないでしょうか。中学の英語の先生が言っていた勉強法と同じですね。 だからこそ、二千年の長きに渡って人々と共に、こうした聖典は生き続けてきたのだと思います。これは仏教に限らずキリスト教やイスラムなど他の世界宗教も同じだと思います。しかしながら、我が国の仏教だけは、ちょっと特異だと言わねばなりません。先人が命懸けで残してくれた聖典の意味を理解して、それを実践していく、それを自分勝手な解釈ではなく正しく人々に伝えていくという、正しい仏教としてあるべき根本が失われているのではないでしょうか。もしかしたら江戸時代や明治時代くらいまでは、日本人も漢文を直接理解する素養があったのかもしれませんが、教育内容の西欧化によって、現代では失われてしまいました。 宗教儀礼として、荘厳に経典や陀羅尼を読誦していくことの意義は、もちろん拙僧にも理解できます。しかし儀礼を離れて、人が善く生きるための教えとして説かれてこそ、親が幼子を虐待死させたり、娘が母親に毒を盛るような殺伐とした世の中で、宗教として意味があるのではないでしょうか。 お経さえ読めれば坊主はできるしお布施ももらえる、意味なんか知らないもんねというような坊主ばかりではないと、拙僧は信じていますが。。。 生きとし生けるものに悟りの光が現れますように!(坊主も含む) 合掌 観学院称徳 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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