「死生の問題は大問題ではあるが、
それは極単純な事であるので、
一旦あきらめてしまへば
直に解決されてしまふ。」
(『病牀六尺』正岡子規著 岩波文庫)
明治35年(1902)9月19日正岡子規は35歳の若さで亡くなりました。
東京根岸の子規庵には、母と姉、泊まっていた弟子の高浜虚子がおりましたが、気づかれないうちに息をひきとったようです。
当時不治の病とされた結核を患い七年間の闘病生活を、創作に打ち込んだ情熱の人の静かな最期でした。
辞世の句 「糸瓜咲て痰のつまりし佛かな」
雅号、子規の由来は、ホトトギスで、結核で血を吐きながら死ぬまで鳴くんだ、という決意を秘めたものだそうです。
発句に代わり俳句という呼称を用い、ものごとのそのままの簡潔な描写が大きな
効果を上げるとする「写生」の手法を説き、近代俳句への革新をリードした俳人・歌人です。
拙僧が拙句の俳号を そのまんまや博琳乎としているのは、子規の写生にあやかってのこと。
但し、ほんとにそのまんまで、生を写す域にはほど遠い現状ではあります。
はやく諦めて、17文字に生そのものを写しとるような句を創りたいものですが。。。
合掌 そのまんまや博琳乎